† キリスト教神学 †

キリスト教の神の本質を意味する古典ラテン語《receptrix》(隠れ場を与える女性)について

Study of hands

「Study of hands」 by LEONARDO da Vinci

「宗教とは、個人が行う自己のsolitarinessの処置である」 by Alfred North Whitehead



solitarinessとは、「孤独性」と訳される。
ホワイトヘッドはそういっているが、これは果たして真実であろうか?
確かに、洗礼を受けるまでの心理的なプロセスに、solitarinessは不可欠であり、むしろ必須である。
しかし、洗礼を受けると、我々は「母なる教会」の胎内に入るのであるから、それを超克する。

古典ラテン語に、receptrixという極めて重要な語彙がある。
現在のところ、私はこの概念で聖母マリア論を記した神学者、哲学者を知らないので、どうしても記しておかねばならない。
receptrixとは、「隠れ場を与える女性」を意味する女性名詞である。
ラテン語には男性名詞、女性名詞、中性名詞が存在するが、「clementia(慈悲)」、「immortalitas(永遠の記憶、不死)」、「lux(光、救済、希望、世界)」、「vita(生命)」・・・・・・など、人間の存在と神との関係を表示する幾多の語彙の大半が、女性名詞(f)であることには愕かされる。
「M」から始まる語彙だけでも、これほどの女性名詞が存在している。

・mare(海)
・misericordia(憐憫、慈悲心)
・mater(母性愛、起源)
・moderatrix(女性の支配者)



人間は、言語的な存在者である。
日本でも、詩人多田智満子は「創世記」と題した詩の中で、人間存在の各々を、聖刻文字の一つひとつとして規定している。
精神分析学者という職業上の枠組みを越えて、21世紀の現代思想にも強大な影響を与え続けている思想家ジャック・ラカンにいたっては、「人間とは、シニフィアン体系の中で捉えられ、分節化された動物的存在です」と断言している。(セミネール「他者の欲望」)

人間が、他者の言語から主体性を編成させるという学説は、まずもって正確であるといって良い。
我々にとって最初の他者が「母親」であることは、既に前回のラカンの記事でも述べた通りである。
この関係は、イエスにおいても同じであったはずだ。
イエスは無論、神のロゴスの受肉であるが、神は人間性を彼に賦与するに当たって、一人の女性の胎内からの「肉の生成」を決定された。
マリアの身体から、イエスの身体は構成されている。
マリアの口癖が何であったかは不明であり、不必要な事象ではあるが、こういったパロールの瑣末なシステムにおいてまで、イエスはマリアの物理的身体、及び、言語身体の「引用」を行っていた、と規定することは、ラカン派精神分析学的には可能なのである。

イエスは、母親であるマリアと、有名な「Fort-da(いない、いない、ばあ)」をしたであろうか?
したのである。
彼が、幼児期を有する限り。
マリアが花を見て、「綺麗ね、イエス」と口にすると、イエスは幼いながらも、マリアという起源の他者が「美しい」と感性的に把捉した事物を、<他者の欲望の代理>の原則を通過して、必ず愛するようになるはずである。
マリアに対して、「欲望」という分析学的な用語は用いないが、それでもやはり、マリアの望んだ愛の対象は、イエスにとっての原型となったはずである。
すると、イエスの語り口のあの高貴さには、マリアが大天使ガブリエルの声を聴いた処女であったという事実性に依拠した高貴さであった、と規定可能である。
我々がここで述べたいことは一つである。
すなわち、イエスの人間性は、(神性は全能の父なる神から贈与されている)マリアという「起源の他者」の「代理」であるということである。
イエスは、男性として描かれているし、事実、彼は男性であった。
だが、イエスという男性は、処女なるマリアの子宮から発生し、肉を生成させて出産され、やがてはマリアからパロールとエクリチュールの基本的な枠組みを教えられ、同時にマリアが愛するものをイエスも愛するという、あの「欲望の代理」という重要な主体性概念も彼には生起していたはずである。
すると、イエスという男性の主体性の源流とは、まさしく聖母マリアになる。
マリアはイエスと「容姿」が似ていただけではない。
マリアはイエスに歩き方を教え、おそらくは文字を教え、笑顔を振り向けて、草花の上でその息吹を二人で味わったはずである。
イエスは、マリアから生まれてこそのイエスなのである。

私は、バッハオーフェン的に「母性愛」をマリアに賦与しているのではない。
そうではなくて、キリスト教の「信仰」の本質には、何か信徒が巨大な安らぎを与えるものに、「包摂」されるという感覚が存在するということをいいたいのである。
それを、我々は今後、receptrix(隠れ場を与える女性)というラテン語で概念化する。
この概念は、matrix(子宮)の換言に他ならない。
子宮は「包摂」するものであり、またその「甘美」な愛の息吹で信徒を満たすものである。
この場合、子宮とは、カトリック教会であり、同時に「キリストの肢体」である。

ホワイトヘッドは宗教の本質を、「孤独性」に位置づけ、それを今更のように強調していたが、正確には、洗礼前と洗礼以後で、世界の把捉そのものがコペルニクス的に転回するのである。
洗礼前が仮に孤独であっても、洗礼以後に「孤独」という観念は存在しない。
それは、receptrixである聖母マリア/イエスという「聖母子」のユニットにおいて、まさしく消滅する。
カトリックの教えは、このように冷たい哲学的考察に、より深化された「癒し」を到来させる唯一のものである。
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