† 存在論 †

M・ハイデッガー『現象学の根本諸問題』における「時間」概念について

現象学の根本諸問題〈第2部門〉講義1919‐44 (ハイデッガー全集)現象学の根本諸問題〈第2部門〉講義1919‐44 (ハイデッガー全集)
(2001/03)
ハイデッガー

商品詳細を見る


ハイデガーは、キリスト教神学的な思考フレームにあまりにも依存しすぎている。
その決定的な証拠は幾らでもあるが、端的に主著の一つである『現象学の根本諸問題』(全集版24巻)を開いてみよう。

彼によると、時間には二種類ある。
それは、「時」と「時間」である。
「時」とは、「時間」のイデアである。
「時間」というのは、我々が時計を見て確認するときに、「今」として現前する概念である。
このように、「時間」が「時」=「時そのもの」に含み込まれているというフレームがハイデガーにある。

ところで、この「時」は、キリスト教神学的ないしスピノザ神学的にいえば、「永遠」である。
「永遠」は過去も未来も現在も全てを含む「時」それ自体、すなわち「時間」のイデアである。
ハイデガーは、名高い「存在論的差異」と同じ思考回路によって、「時間論的差異」を導入しているわけである。

「我々が数える諸々の<今>は、それ自身、時の内に有る」

                     by ハイデガー



時間について思考するうえで、ハイデガーが出発点として「時計を見る」行為から始めていることに注目しよう。
我々はいつでも「時間」をチェックする。
時計が示唆するのは常に「今」である。
ハイデガーは、本書で理解し難いテクストを刻印しているのだが、これについては考えれば考えるほど奥深い命題でもある。
彼が「美しい」などと自分で奇妙なナルシシズムに入っていることからして、いっそう神秘的でもある。
以下だ。

「今は、時のいかなる部分でもなく、つねに時それ自身で有る」



何故、「今」が「時それ自身」と一致するのであろうか?
「今」は、すぐに過ぎ去って「過去」になる。
「今」の絶え間ない連続性として、我々は常に「今」のさ中に立ち、「過去」にも「未来」にも有ることをなさない。
しかし、ハイデガーはここで思考の跳躍を見せているとも考えられる。
彼は、この「今」こそが、実は「永遠」に他ならないといっているのである。
これは彼自身も認めるように、確かに衝撃的で「美しい」思考である。
プラットホームの電光板で、何気なく時間をチェックした。
すると、「7:30」と表示されている。
この「今」が、ハイデガーによると、「時それ自体」であるのだ。
この前のテクストと、この雷撃のような一文とのあいだには、深い溝がある。
明らかに、ハイデガーは先にエックハルト的な神学の影響を受けて、時間論の断章を綴っていたのだろう。
ここには論理を越えた何かがあるのである。

ハイデガーは「永遠」という言葉を絶対に用いない。
彼はあくまで「時」と表現する。
しかし、「永遠」が「今」と一致するというのは、一体どういうことであろうか?
その謎を解くヒントは、本書でも記されている。

「根源的時はそれ自身において、自らの外に有る」



根源的時とは、まさしく「時」それ自体であり、「永遠」のことである。
ハイデガーは、「永遠」は「時間」の概念の「外部」にしか有ることができないと断言しているのである。
これを彼は「時が通俗的時間から脱出する」とか、「時の脱自態の地平へ」などという言葉で表現している。

Studies of embryos
「Studies of embryos」 by Leonard da Vinci 

もう一度整理してみよう。
ハイデガーは、彼の時間論において、「時」と「時間」に差異をもたせる。
「時」とは「永遠」であり、「永遠」は時計で確認できる「今」を含みこむ。
この「含みこむ」構造は、入れ子構造というよりも、胎児が子宮に入っているような生々しいイメージとして到来するものである。
「永遠」とは、「子宮」であり、「今」はその中の毛細血管の一点に過ぎない。

ところで、この「時」と「時間」の差異を、存在論的差異と結合して考えてみよう。
存在論的差異とは、いうまでもなく、「有るもの」と「有」の差異である。
机の上にリンゴがあるとせよ。
このリンゴは、「有るもの」である。
キリスト教神学的に表現すれば、「被造物」である。
対して、ハイデガーはこのリンゴ=「有るもの」の根源、これが「有る」ということを支えている根源的な地平を「有」と名付けている。
この「有」とは、世界にある全てのものの根源的基盤であり、いうなれば有ることを成したまう「神」である。
ちなみに、アクィーノの聖トマスによれば、「神」の属性には「有」がある。
したがって、ハイデガーの『有と時』それ自体が、実は「神」の属性から「有」をスポイトさせ、それのみに焦点を絞った神学論とも解釈可能なのである。

「有るもの」の第一の性質とは、「世界の内に有る」ことである。
リンゴは「世界」の内にある。
リンゴが「世界」の外にあることは不可能である。
ここまでのリンゴに関する説明に、まだ登場していない「有る」ことと並んで重大な概念こそが、「時」である。
先述したが、ハイデガーは「時」と「時間」に差異を与えている。
リンゴは永遠に属してはいない。
リンゴは朽ちる。
机の上に「今」リンゴが置かれていても、10000年後にも同じようにそれが有るわけではない。
被造物は「時間」に浸食されていくのである。
それは、リンゴが「時間」を持っている証拠である。
リンゴは「時間」を背負っている。
同時に、我々も「時間」を背負っている。
どんなに長生きしようが、我々の人生などは所詮120年にも満たない。
人間は「時間」を背負い、「時間」に巻き込まれて生きている。
人間に与えられているのは「有限的時間」であり、「無限的時間」ではない。
ハイデガーは、この「無限的時間」すなわち「時」と、「有限的時間」すなわち「時間」を区別するのである。
これは、被造物である人間にある寿命と、創造主である神が寿命などを脱出していることの差異と同一である。
要するに、存在論ばかりか、時間論においてすら、ハイデガーの思考はキリスト教神学における「神」=「有/時」と、「被造物としての人間」=「有るもの/時間を背負うもの」を踏襲しているのである。

重要なのは、キリスト教神学においては、「神」の属性が「有」と「時」であるということである。
「時」とはいうまでもなく「永遠」である。
神は永遠であり、そしてありとあらゆるものを創造した点で、創造の原点、「有」である。
人間は「有るもの」であるが、神は「有」である。
人間は「時間に縛られている」被造物であるが、神は「時間を越えている」創造主である。
このようなほとんど二元論的ともいえる思考回路が、ハイデガーには存在することはどうしても注意が必要だ。

むしろ重要なのは、ハイデガーが「今は時それ自身である」と断言している点と、「今が時に包み込まれている」と規定している点である。
この二つの点は重要である。
「今が時に包み込まれている」という、「包摂」の構造は、イメージとしてはやはり「マトリックス(子宮)」になる。
それは、「今」がやがて未来において同じ「今」として循環するというアナクロな循環論ではない。
ハイデガーは、表現として「包み込まれている」という言葉を用いるのである。
しかし、ハイデガーは別のところで、「今は時それ自身である」ともいっているし、「時は時間を脱出する」ともいっている。
もしもこれら全てを踏まえて、ハイデガーの時間論を再構成するならば、以下のような命題が成立するであろう。
すなわち、「永遠とは、我々が時計を見るときに出会う時刻に既に有る。しかし、永遠が時間に属しているというわけではない。永遠は時間を越えている。そして、永遠は時間を、つまりこの今という現在を、包み込んでいるのだ」と。

これは我々がまとめた帰結であるが、よく解体すると、明らかに矛盾を孕んでいる。
まず、「今この時に永遠と出会う」という命題と、「永遠は今を包み込んでいる」という命題の関係が未だ曖昧である。
もしもそのままこの二つを信じるのであれば、我々は、時計をチェックしている時に、そのまま単純に「永遠」に出会うのではない。
時計はただ、「今」という「時刻」を教える道具であるに過ぎない。
しかし、この「時刻」は、やはり「永遠」の部分である。
「永遠」は時間システムの全系列を内包している。
ゆえに、全てがいわば永遠なのだ。
一時間前も、今も、一時間後も、やはり「永遠」なのである。
しかし、正確にいえば、「永遠の部分」である。
この表現は矛盾である。
何故なら、「永遠」には部分などは存在しないし、だからこそ永遠だからである。
部分があるということは、全体があるということである。
全体があれば、それが限界であって、有限ではない性質を持つ「永遠」の概念と背反する。
したがって、「永遠」には「部分/全体」の二項対立は赦されない。
「永遠」は何らかの形式で、やはり「今」を「超越した」時間システムの外部である。
だとすると、「永遠」というのは「時間」とは無関係である。
「永遠」はまさしく「神」そのものであり、我々の時間概念からは把捉不可能である。
にも関わらず、ハイデガーは「今が永遠である」というようなテクストを残している。
これは、ボルヘスがブエノスアイレスの公園の砂場で砂を撫でながら、「今わたしは、サハラ砂漠の形態を変化させている」と断言した発想と類似している。
つまり、「神秘主義的」なのである。

我々は、ここでオフィーリアの死について考えよう。
オフィーリアは自殺する直前、狂気のさ中で讃美歌を歌いながら、花を頭に乗せて川に自らを浸した。
彼女はゆっくりと川を流れていく。
ヘラクレイトスは、「時間」を「川」のように流れるものだと直観していた。
オフィーリアは、しかし「時間」には属していない。
彼女は間違いなく「永遠」に身を浸しているのである。
相思相愛だったはずのハムレットと抱擁している時のオフィーリアにとっても、やはり「今」が「永遠」になるような瞬間は存在したはずである。
「今」が「永遠」になる、すなわち「永遠」のように絶対的で美しいものになる、生成変化する瞬間というものを認可すると、先のハイデガーの謎めいた断言は許容範囲に含まれる。
しかし、文学的にこの時間論は確かに美しいが、哲学的には非論理的である。
ハイデガーはしたがって、時間論に詩的な要素を巧妙に介在させている、と解釈可能であろう。

ハイデガーは「今が永遠そのものである」と断言したわけではない。
「今は、つねに時それ自身である」と断定したのである。
これは実質的には同じことなのである。
我々には、以上の考察から一つの結論が導出できる。
すなわち、我々の人生には、ある「瞬間」の「今」が、ほとんど「永遠」と断言してもいいような謎めいて甘美な感覚的次元が確かに存在する、と。
これはいつのまにか感性論的命題へ下降していることになるであろう。
しかし、ハイデガーは哲学を詩作として規定しているのであるから、そもそも彼自身も厳密な論理学者ではないのである。
「今」が「永遠」になりますように――この祈りにおける我々の共通した願いも、先の時間論の帰結から解釈できる。
「永遠」が「今」を構成しているのである。
そして、パズルのピースから、不意に全体像が垣間見えるように、我々は「今」という一点から、「永遠」にまで到達可能なのである。

関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(2)



~ Comment ~

私の本も読んでみてください。

宜しければ私の本も読んでみてください。私は現代思想に関してはほとんど何も知りませんが、私が書いてゐるものが現代思想においてどの様な位置づけなのか知りたいのです。宜しくお願いいたします。
[2012/03/13 02:54]  積 緋露雪  URL  [ 編集 ]

Re: 私の本も読んでみてください。

コメントありがとうございます。
仕事後の疲れ眼で読書にも勤しむ人間ですので、機会ができればまた読んでみようと思います。
[2012/03/15 06:46]  satoshi  URL  [ 編集 ]















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next