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新しい記事を書く事で広告が消せます。 ![]() 「力への意志」としてのエロティシズムについて 「Embrace light 」 by Bruno Di Maio マルテン・ヤーコプス・ファン・フェーン・ヘームスケルクの『Ecce Homo』(1525-30)から。 この16世紀初頭に活躍した画家の存在は重要である。 彼はイエスの「力」の根源を視覚化した点で重要なのだ。 何を視覚化したのか? 彼が描いたのは、キリストの「ペニス」である。 3世紀に活躍したアルテミドロスの『夢の解釈』によると、「ペニス」の象徴的な意味内容とは、「力/活力」である。 この絵は現代世界にとってもなお、衝撃的な力を持って到来する。 キリストは勃起しているのである。 復活したキリストの天的な「力」を、勃起したペニスとして描いたヘームスケルクの才能は特異かつ異常であり、讃美に値する。 何故、イエスは復活時において勃起していたのか? 勃起する、とは一体どういう事態であるのか? 我々は性的興奮を覚えると、皆必然的に勃起する定めである。 何者もこれに逆らう事はできない。 勃起とは、ペニスが屹立することであり、しかもその屹立が最高度に高く強くそそり立つ、かの時である。 勃起している全ての青年は、「力」のさ中に立っている。 それはペニスの力であり、男性的、男根的な力である。 この屹立し、活火山化したペニスは、徹底的にヴァギナという「穴」を目掛けて「貫通」することを希求する。 ペニスはいわば「槍」である。 ペニスは攻撃的なのだ。 ここには「力」のアレゴリー化にまで至る心理的なプロセスが見え隠れしている。 ペニスは「力」の象徴であり、そうであるがゆえに、復活した全能の力を有するイエスは、勃起しているのである。 勃起したイエスは人間ではない。 これは神が勃起していることを意味している。 神が勃起した状態で描かれているとは、一体どういうことなのか? 続いて、我々は新しい革命的な絵画について言語化してみよう。 1525年にそれは描かれた。 ソードマの『聖家族』である。 これには幼子イエスが描かれているが、彼は幼子でありつつも「ペニス」を自分で握り、それを誇示している。 イエスはマリアに抱かれている。 イエスの「力」の象徴が、身体的には「ペニス」として現前している証拠である。 イエスはイエスである限り、神学的に「勃起」した状態であり続けねばならない。 我々にとって、これらの絵には重大な意味が秘匿されている。 それを読み解くために必要なのは、もう一枚の異常な絵画の連作、19世紀に活躍したソモンテの「三層パネル」(正式な名称は無い)である。 これは、実は入れ子構造を持った絵画である。 一枚目の扉絵には、美しい花が描かれている。 しかし、これらの花弁が開示される(=扉絵が開かれて奥の二枚目の絵が現前する)と、若い男女がひたすらセックスに明け暮れている性的な表象が現前するのである。 この絵は「エロス」とは何かを教える重要な力を宿している。 つまり、「エロス」とは、「花弁」である。 花弁の「奥」が「見えない」ということ、これは暗号化、秘匿化である。 「エロス」は可視化されてはならない。 「エロス」は徹底的に、「見えないもの」「隠れたもの」として現前する、否、現前“しない”。 「エロス」が可視化できぬからこそ、それが「エロス」であるということの証拠を探ろう。 それは別の絵、つまりマルカントニオ・リアモンディが1534年頃に描いた『イ・モーディ』の挿絵である。 これには、単純にまず月並みな男女のセックスが描かれている。 男性は女性の両足を抱き上げて、見下ろすようにしている。 女性はつまり、両足を開けている。 しかし、重要なのは、彼らのベッドの下に、「観察者」という男性が「隠れている」ことである。 ここにも、「隠れている」ことが、単なる生殖行為を「エロス」にまでアウフヘーベンする因子が潜んでいると考える。 実は、レンブラントも1646年に《フランス式寝台》というセックス画を描いている。 これはまぎれもなき性交の絵であるが、二人の男女の姿は、寝室の天蓋によって「隠されている」のである。 ここにも、やはり「ヴェールで覆われている」「貝殻は閉じられている」「花弁の奥はけして見えない」という、共通した「秘匿化」とでもいうべき概念が働いている。 ひとが「エロス」を感じるのは、それが「隠されている」ときである。 開示されれば、それは最早「エロス」ではない。 我々がもしも、ある別の男性に「エロティックな魅力」を与えたいのであれば、我々はある女性との関係を、けして現前させることなく、それを隠密裏に彼に静かに「隠されている」こととして“ほのめかす”ことをせねばならない。 「エロス」は現前させてはならない――だからこそエロティックになるのである。 スカートをはいている女性と、全て脱いだ女性の、どちらがよりエロティックであるか? 全てを脱いで、「着衣」を喪失した女性においては、彼女の身体が現前している。 ここにはただ、「女性の肉体」があるのみである。 しかし、スカートを履いて、見えるか見えないのかの究極的な瀬戸際のさ中に立っている女性は、男性を扇情させる理念を熟知しているのである。 男性が「見たい」と欲するものを、女性はやすやすと「見せる」ことをしない。 それを簡単にするような女性には、いかなるサロメ的魅力も存在しない。 真のサロメとは、男性を欲情させつつ、彼を誑かして「逃走」する。 最高に苦悩するのは常に男性であり、彼らはひたすらこの魅惑的な小娘を材料にして苦渋に満ちたマスターベーションに励行する。 しかし、サロメは平凡な男性には何の関心も示さない。 サロメはただ、彼らの欲望の対象になることを欲しつつ、彼らの「期待」、すなわち「この女は俺のものだ。誰にも渡すか。絶対にこの俺がこの女を抱くのだ」というその強靭な意志から、かろやかに「逃走」する。 これこそが真のサロメであり、最高の女性的な逃走論である。 ここで、我々青年が陥る最大の危険を語ろう。 それは、「娼婦」についてである。 我々の大半は、実際にはポルノに出演している女優や、風俗店の若い娘たちは、「外見は可愛い」「魅力的だ」「エロティックな力がある」などと判断し、惚れ込み、これを欲望の対象とする。 若き日のニーチェの女遊びも、おそらくこのような単純な動機が理由であったろう。 しかし、これには実は致命的な誤解が存在している。 19世紀のロシアの病理学者ポリーヌ・タルノフスキーは、何十人もの娼婦の「顔」の特徴から共通する類似点をデータ化した最初の人物として注目に値する。 彼の分析対象は、現在活躍中の「娼婦」だけではなく、今は第一線を退いた「元娼婦」の「顔」や身体的特徴をも含んでいる。 これは戦慄すべき内容であるので、我々は冷静に読解せねばならないであろう。 娼婦が老け込んでくるとどのようになるかについて、彼は、
と記している。 これには無論、例外も存在する。 引退しても美しい娼婦は存在するであろう。 だが、彼は典型的なパターンを少なくとも提示し、上記のように結論しているのである。 これは誇張ではないであろう。 極めて興味深いのは、この医学者が、「性器が人相に影響する」という説を理論化していたという事実である。 何度もペニスを受け入れ、使い古されてくたびれた娼婦の生殖器は、やがて「顔」にその影響を与え始めるというのである。 娼婦の肉体にはパターンが存在する。 これには無論、選ぶ男性の嗜好もあるが、典型的に娼婦は「豊満な肉体」であり、「巨大な胸」と「大きな尻」を持っている。 娼婦の大陰唇は、仕事を重ねるたびに巨大化するという説を彼は主張している。 これはあくまで19世紀に活躍していた娼婦からのデータであるが、それによると、彼女たちは明らかに「先祖がえり」しているとのことである。 ホッテントット族という未開部族の女性たちは、皆共通して巨大な胸、巨大な尻を持っているが、これは原始人類に近い姿である。 娼婦には、擬似‐生殖行為を継続することによって、いわば女性的な身体的器官を「巨大化」させるという現象が存在するのである。 タルノフスキーは、結論として「娼婦の老後の醜さ」にまで言及している。 平穏に、男性と相思相愛になり、結婚して三人の子供を生んだ女性と、生涯に100人以上の男性を客として相手にした娼婦の比較において、明らかに老後に「醜さ」を露呈するのは、後者だというのである。 ここには十分な医学的考察の余地が残されているが、しかし、娼婦の仕事が、身体に多大な「負荷」を与える行為であることだけは、まずもって確実である。 現代アメリカの代表的なポスト・フェミニズム理論家であるドゥルシラ・コーネル女史によると、往々にして娼婦は、幼女時代ないし少女時代に身体的なトラウマを経験している。 それは、自分の父に陵辱されたり、それに付随する現場を目撃したりといった内容である。 普通に暮らしている女性は、犯されることに至福を見出すようにはならない。 私は高校時代に、あるポルノを閲覧していて、そこに出演していた女優がこういうのを耳にしたことがある。 「オンナには誰にでも犯され願望があるわよ」 これは正確にいえば、「私には犯され願望がある」という主体の無意識の表示であるに過ぎない。 それを全体化する稚拙な発想は危険であり、この娼婦は間違いなく男性的な欲望原理を、自分の無意識にまで刷り込ませているのである。 彼女の身体は男性によって捏造されているに過ぎない。 私は娼婦がエロティックであることを認めるが、そのエロスが普遍的なレヴェルではない点を残念に感じる。 エロスは普遍的でなければ意味が無い。 エロスを普遍化、止揚態にすると、キリスト教になる。 それはマリア・マグダレナの生涯として、既にはるか昔から伝えられているものであり、未だなおウォラギネの記した彼女の聖女伝は再読に値するのである。 ※ 上記で引用した絵画についての仔細は、サンダー・L・ギルマンの『SEXUALITY An Illustrated History』を参照。 ![]() 「Heads and hands of the Apostles」 by Raffaello Santi 魔女学についての試論 1486,1487年にラテン語で初版を出した、ドイツのドミニコ会士インスティトーリスとシュプレンガーの共著による『Malleus Maleficarum』は、15世紀以降の魔女裁判において異端審問官のためのポケットブックとして用いられた。 本書は魔女学の基礎文献である。 訳すと『魔女への鉄槌』が正しい。 この中で、二人はまず、「魔女」とは何かについて定義を与えている。
続いて、これも魔女学について知る上では必読文献とされているが、ジャン・ボダンの著した『魔女論』では、魔女は「Diable(語源学的には中傷者)」、「Sathan(人類の敵)」と同一視されている。 彼は、Daemonsと魔女とのセックスによって、「人間の姿をまとった悪魔が生まれる可能性がある」と述べている。 そして、彼は悪魔を、「Daemonsとは、肉体的存在である」と規定する。 魔女学は、実はアクィーノの聖トマスの『Summa Theologiae(神学大全)』のスコラ的方法論によって記されている。 これは「末期スコラ学」が生んだのである。 「問い」と「答え」によって弁証法を構成する周知のエクリチュールであるが、ある「問い」に対して、その「答え」が一定の枠組みに適合すると、彼女ないし彼は「悪魔」と同定されてしまったわけである。 聖トマスが、現在のローマ・カトリック教会の教義に与えた影響には甚大なものがある。 彼は革命的で天才的な思索者ではなかったが、それまでの過去の教義を厳密に体系化、システム化する観点においては突出した才能を発揮した。 ちなみに、彼の師匠であるアルベルトゥス・マグヌスの存在も極めて重要である。 その聖トマスは、先の『神学大全』第一部五十一問で、「悪魔」について以下のように記している。
また、ボダンの『魔女論』と同名の、アンリ・ボゲによる『魔女論』(1602)では、以下のように記されている。
魔女学とは、全てが例外なく女性性に対する侮蔑的表現を含んでいる点で、「反フェミニズム」である。 これらの著者が全員「男性」であることは忘れてはならない。 いうなれば、「男性」が自らの「肉慾」を、よわき乙女たちに「貼付」しているのである。 これは意味賦与作用の「暴力」であり、悪しきジェンダー・ディバイスである。 その証拠に、ドイツ南西部で1562年から1684年のわずか120年間で、「魔女術/魔法」の疑いで告発された人間のデータを見ると、「男性238人」であるのに対して、「女性1050人」である。 異端審問官も、当然「男性」である。 いわば、末期スコラの痴呆化したともいえる画一的な質疑応答により、古代ゲルマンの神話世界に平穏に住んでいた罪なき多くの女性たちが、「異端」や「悪魔」と同一視されたわけである。 スコラ学は厳密な体系であるが、その「外部」を断じて許さない。 統率するためには、「外部」は根絶やしにせねばならないという、これも男根ロゴス中心主義的な論理である。 残酷なのは、「火炙り」が常に「公開処刑」だった点である。 異端審問官たちは見せしめのために、多くの少女、少年、女性、老女たちを観客数千人の前で生きたまま火炙りにした。 既に記したが、中世ヨーロッパ文化の基礎にあるのは、なにもキリスト教のシステムだけではない。 ケルトの神話世界や、ギリシアの哲学、それにゲルマンの伝説などもキリスト教のシステムと同じほど有力なシステムとして共存していたのである。 キリスト教徒たちは、異なるシステムに対して、それを「外部」として位置づけることしかできなかった。 すなわち、自分とは異なる他者として、迫害するのである。 二本の角がある獣への信仰は、ケルトやゲルマンの神話システムでは一般的であるが、キリスト教の価値観からすると、すぐに「悪魔」との同一視へと結び付けられた。 その結果、罪深く無知なファロゴセントリズムの魔手によって、多くの「罪なき女性」たちが死んだのである。 どちらが悪魔かといえば、無論これはいうまでもなく、火炙りを赦した教皇庁こそが悪魔である。 カトリック教会が、このような極めて反省すべき点を多く有していることは、この宗教システムが2000年以上の歴史を有していることに由来している。 現代に目を向けてみよう。 現代には、実は「魔女学」が存在する。 しかし、『魔女への鉄槌』が読まれていた当時の、キリスト教徒たちが女性に与えたレッテルとしての「魔女」ではなく、キリスト教が脱中心化されつつある現代世界においての「魔女」である。 我々は、現代イギリスの名高い魔女学者であり、同時に魔女でもあるドリーン・ヴァリアンテ女史の『Witch for Tomorrow』(1978)を読んでみよう。 彼女は、現代ヨーロッパには、各地に「魔女集会」があることを暗示させている。 カトリック教会は「男性」のみが「神父」として説教する権利を持っているが、魔女集会において実質的な支配権を持つのは「女性」であり、彼女たちは「プリーステイス(女祭司)」を尊称される。 ヴァリアンテ女史によると、魔女術とは端的に「性」と「聖」が融合したシステムである。
この断言は不気味で戦慄させるものがあるが、内容的にはインドの「タントラ」からの引用である。 ヴァリアンテ女史は、キリスト教社会が長らく封印し、そして現代も公的にはタブーとされている「性」を普遍化することが、魔女学の本質であると規定する。 彼女の教える魔女術におけるセックスは、一つの聖なる儀式として実践されている。 そこでは、必ず女性が「魔法円」と呼ばれる円形の境界を描き、その内で男性の上にまたがる。 これを「ピラミッドの姿勢」といい、目指すべきものは「存在の融合」である。 いわば、我々カトリックの信徒が、「祈り」や「隣人愛」の教えを通して「神」との触れ合いを目指そうとするのに対して、現代魔女術は徹頭徹尾、「セックス」を「聖なる儀式」として把捉し、そこから「神」を目指そうとするのである。 注意しておきたいのだが、これは現代の魔女術であって、500年前に行われていたものではない。 現代の「魔女術」というのは、実質的には様々な宗教において、「タブー」とされているものを「解放」させるための手段として、いわば遊戯的に行われているものであると考える。 したがって、これに「魔女術」という言葉を与えること自体がミステークである。 これは、「セックス」における一つの様態なのである。 そこに「宗教性」を結合させることによって、宗教が克服したと考える「エロス」を逆説的に解放させるのがヴァリアント女史の最大の狙いである。 彼女は、アレスター・クロウリーの思想を引用しつつ、女性と男性の愛液を混合したものを「第一原質」と呼称する。 これは、男性生殖器を錬金術における「蒸留瓶(キューカバイト)」に、女性生殖器を「錬金炉(アタノール)」に象徴化し、そこから溢れ出す二人の愛液を、万能の「エリキサ(錬金薬)」と規定するものである。 このエリキサは、セックスがミサと化している現代魔女術においては、いわば「聖なるパン」「聖なる葡萄酒」に相当するものである。 彼女は、現代魔女術では、タントラ文献の一つである『カープラディストトゥラム』に倣って、男性側がエリキサを飲まなければならないと述べている。 我々が注目せねばならないのは、「カレッツア」という性魔術である。 これは、男性側がオルガスムに達する前に女性生殖器から自身の生殖器を抜いて、快楽を「無限に延長させる」ことを目的にした性技であり、由来はスーフィー神秘主義にあるという。 男性はここで、快楽を自身で制御せねばならない。 ここにおいても、いうまでもなく女性はピラミッド体型を取るのであるから、現代魔女術とはまさしく「女性がセックスにおいて男性に圧倒的に優越する擬似宗教システム」であると規定できるであろう。 以上、魔女裁判の全盛期、そして現代のほとんど寓話化された魔女術からいえる命題がある。 それは、「宗教で性を克服できない場合、エラーが生じる」ということである。 カトリック教会は、エロスを克服していると我々は考えている。 何故なら、カトリックの教えは「愛」であり、「愛」は「エロス」を地上的なものとして規定し、その上に真の聖なる愛である「カリタス」を置くからである。 カリタスは、隣人愛、とくにレヴィナスの美しい表現を借りれば「涙を流す孤児たちの顔」として到来する。 困っている異邦人的存在者、弱者に対する「手を差し伸べる行為」から、どうして「エロス」が生まれるのであろうか? しかし、人間は地上で生きている。 同時に、人間には生理的欲求がある。 性欲は我々若い青年を懊悩させ、苦悩させる最大のものといっても良いであろう。 しかし、カトリックの教えは、「マスターベーション」を「罪」として規定している。 12世紀ドイツの女子修道院長ヒルデガルト・フォン・ビンゲンにおいては、男性が「夢精」することさえも、忌み嫌われるべき悪癖だと記している。 中世キリスト教社会は、人間が流す二つの液体への蔑視としても規定できるだろう。 すなわち、「血液」と「精液」である。 このうち、「血液」はキリストの御受難において脇腹から流れ出たものとして「葡萄酒」に実体変化してもいるので、むしろ忌むべきは「精液」である。 しかし、我々若い青年にとって、「性欲」をどのように抑制するか、これは甚だしく重要な問題であることには変わらないのである。 こういった青年的かつ、肉欲的な懊悩から、もしかすると魔女術の寓意化は始まったのかもしれない。 最初は一般的な男女のありふれたセックスだった。 それが、より過激なものを求めるうちに、「宗教」に亡霊的に内在している「エロス」の問題が浮上してくる。 宗教はエロスを抑圧している。 それを「タブー」としている、つまり「〜してはならない」という掟の存在が立ちはだかる。 人間というものは、「してはならない」といわれたことを、むしろ積極的に「したくなる」、そういう生き物に他ならない。 こういった生理的欲求、ないし理性の欠如、思索の怠惰から、「宗教」を悪用した「性欲」の「解放」が教義化されていく。 かくして、キリスト教的には「異端」であり、「破門」の対象となる体系のみを結集させた「システム」が形成されるのである。 現代魔術、特にヴァリアンテ女史の伝えるイギリスの小地方で継続されている性魔術とは、こうした人間の弱さの表明に他ならない。 カトリック信仰は、「エロス」にいかに立ち向かうべきか ここで我々は一つのエピソードを表明する。 それは、現代アイルランドの重要作家ジョン・マクガハンの処女作である。 彼は、おそらく自伝的要素も多分に含んでいるのであろうが、一週間に行ったマスターベーションの回数を全て聴罪司祭に聞いてもらい、赦しの秘蹟を求めていたことを記している。 「マスターベーションに罪の意識を感じるか?」という問いに対して、カトリックの返答はいうまでもなく「然り」である。 それは自分自身で自分の身体を犯そうとする穢れた行為に他ならない。 しかし、我々にも経験があるはずだが、やむにやまれずしてしまうマスターベーションというものも確かにあるのである。 そして、我々は行為の後、疲れ果てたような顔で、自分の弱さ、被造物としての圧倒的な不完全さ(というのも、神は性差を超越しているので、性欲とは何かを御存知ではないであろう)を痛感せざるをえないのである。 もしも我々が「男性性」と「女性性」の双方を有していれば、この問題は生起しえない。 しかし、我々はオシャレをするし、オシャレとは結局は、異性に注目されることを欲望することである。 以下の記述から、今、我々は「信仰とエロス」の問題に急迫している。 信仰、特に若い信徒である我々にとって、地上はあまりにも魅惑的である。 それは、誘惑に絶えずさらされている無垢な子羊の肖像といっていいだろう。 これに対して、我々信徒は、一つの解決策を既に提示している。 すなわち、地上の掟には、地上で従え、である。 これは換言すれば、聖書の教えを絶対化するのではなく、聖書をあくまで当時の時代が著した文献として神学的に解釈するに留め、そこから「こころの慰め」になるものをこそ、積極的に掴み取っていこうというものである。 オシャレは肯定されるし、オシャレは心理療法ですらある。 美容効果で、女性の精神的な病苦が改善されたケースを我々は知っているはずである。 オシャレは、自分の身体を大切にする機会である。 それはアダムから続く、「身体」の尊重である。 エロスとは何であろうか? ラカンによれば、人間は、「視知覚が最も優越した存在者」である。 我々は、まず女性を「見る」。 女性は、男性である我々を、「見る」。 この視線の交錯、駆け引きとは何であろうか? 例えば、我々が都市を歩いているとする。 すると、街路でkissをしている若い恋人がいたとせよ。 それを見て、我々は「エロス」を感じるであろうか? 否、その光景は、神が我々に何か意味を持たせて与えられた恵みである。 では、もしも我々が、破廉恥にも公園のベンチでセックスしている真っ最中の若い男女に遭遇すれば、何を感じるであろうか? 我々はそれを見て、動揺のあまり、「ソドムの徒よ!」と叫ぶであろうか? これについても、静かに「否」といっておこう。 現代都市において、このような光景に出くわしても、何も愕くには当たらない。 あらゆる「衝撃的なエロス」の喪失こそが、現代都市の通奏低音である。 ある者は妻以外の場所で愛人を作る。 夕暮れに時間の空いた若いマダムは、年下の青年と逢引に耽る。 老いたる教師は自分の教え子の少女に欲情するかと思えば、女子高生は遊び半分と手軽なアルバイトのために自分の春を売り渡す。 これらは全て、哀しいかな、ありふれた光景に過ぎない。 そこでは性的で、考えようによっては一人のキリスト者を深刻な苦悩にまで追い込ませる罠が仕組まれているが、実質的にこれらのことは、古代から現代まで、飽くことなく反復され続けているのである。 それに今更、我々が大胆な警鐘を鳴らすことに果たして意味があろうか? D・H・ロレンスは性を謳歌したが、それをするなら、聖パウロの面前ですべきであったろうに。 今の時代に「セックスこそ宗教の呪縛を解放する手段である」と宣告することには、我々現代人はただ、「空しさ」しか見出せない。 若い青年である我々が、常に「セックス」のことに意識が回り、容姿端麗な女性の淫靡な姿に惑乱し、Webに溢れかえる大量のポルノグラフィを閲覧して、マスターベーションを繰り返していることは、我々が「煉獄」へ向かうことの証左である。 性の問題については、性をむしろオシャレや芸術性にまで昇華することで、我々は解決していくべきだと考える。 宗教が「エロス」を克服するために存在するとは、我々は考えていない。 特に、カトリック教会は、むしろエロティックな甘美さを平然と「祈り」にまで昇華できることを、一つの美徳であると考えている側面があるように私は感じる。 だとすれば、カトリック教会は、そうであるがゆえに、最高に美しく、「エロス」の問題を「カリタス」にまで発展させているのである。 「エロス」から宗教は生まれない。 宗教は、「エロス」が大文字化し、怪物のように巨大化したときに、不意に雲間から現れる「空しさ」から誕生するのではないか。 「エロス」に身を委ね続ける生活から、その愛を、真の不滅の最高最大のエロスである「カリタス」にまでアウフヘーベンするとき、我々は皆、「凄まじい大淫婦」であり、「サタンの娘婿」である。 しかし、ここにおいて、宗教的には、その「淫猥さ」が、カトリックにおける実直でひたむきな「聖なる愛」への信仰に、容易に反転し得るのではないか。 ミサにおいて、我々が口にする「聖体」とは、まぎれもなくイエス様御自身の御体の実体変化である。 我々は、毎週彼の身体を舌の上に乗せて、幸せになる。 これは、愛する彼女の乳房を舌の上に乗せて幸せになることと、一体何の差異があろうか? 同じである。 すなわち、ミサには「エロス」が痕跡化して現前しているのである。 ゆえに、ミサとは、「エロス」の止揚態である。 もしも「エロス」の問題に苦悩している信徒がいるのであれば、我々は同じ呪縛に苦しむ弱き子羊の仲間として、こういう。 つまり、「汝のエロスを爆発させよ」と。 エロスが最大に、爆発的に巨大化した時こそ、そのエロスに我々が最も敬虔に向き合う機会である。 エロスは巨大化させねばならない。 エロスを巨大化させることで、我々はそのさ中で苦悩し、マスターベーションするか、それとも手っ取り早く娼婦を抱くか、或いは付き合っている彼女にセックスを懇願するか、いずれかの道に走るであろう。 有史以来、我々はエロスの問題でこのように苦悩してきた。 だが、エロスが肥大化している時に、その時にこそ、我々は我々の「信仰」に逆説的に対峙するのではないか。 エロスは汚らわしいものではなく、むしろよりよきカトリック信仰の「聖なる愛」へと到達せしめるために、神御自身がお与えになられた「恵み」ではないのか。 エロスは、かくて、最早恐るべきものではない。 エロスは魔女の特権でも、魔女術の専売特許でもない。 エロスの問題は、我々現代を生きる信徒の最大の命題である。 この命題に盲いてはならない。 エロスを媒介にして、我々は信仰を強くする。 エロスは恵みであり、パンであり、キリストの体である。 地上に存在している全てのものが、神の被造物である限り、エロスというこの被造物としての人類が共通して背負う十字架も、パラドキシカルな次元においては「信仰」の発火源に他ならない。 ![]() 「Cascades」 by Hubert de Lartigue フィビオン派の青年教祖についての報告
子宮とは何であるのか? 何故、我々は子宮を欲するのであるか? 我々にとって重要なのは、ポルノグラフィーにおける「乱交」の概念化である。 乱交とは、複数のペニス、複数のヴァギナの饗宴である。 だが、我々は何故、この通常の意味での乱交にいかなる美も感じないのか? 美とは、常に「ひとりの男に、多くの女」か、「ひとりの女に、多くの男」でなければならない。 教会博士リグオーリのアルフォンソは「快楽的なセックス」について、以下のように珍しく寛容な態度を示している。
続いて、ヨハネ・パウロ二世は以下のように記している。
我々は、ある「青年教祖の日常」について夢想する。 彼はカトリックの信徒である。 彼は教会で多くの女性信徒と親交を持ち、多くの女性たちから信頼されている。 しかし彼にはもう一つの「ミサ」が存在している。 それは夜の地下教会で毎週一度開かれているものであり、教義内容はグノーシスの中でも最も邪悪とされて悪名高い、かの「フィビオン派」のそれである。 この教団については学界でも実在性が正当化されているので、以下で詳述する。 我々信徒は、絶えず悪魔の誘惑に曝されているといってよいだろう。 Webの大海それ自体も、考えよう、視座の持ち方によっては悪魔の巣窟と化す。 フィビオン派には幾つか異名が存在する。 ボルボロイ派というのもそうだが、もしかすると二つ類似した教義を持つ宗派が存在したのかもしれない。 この教団については、グノーシス研究の最高権威であるクルト・ルドルフの『グノーシス』に詳しい。 この教団は、エピファニオスの『薬籠』で報告されているだけではない。 ミヌキウス・フェリクスの『オクタヴィウス』や、マンダ教の文献でも報告されている。 つまり、実在した可能性が極めて高い。 彼らのミサについて、まとめると以下になる。
ルドルフが記録しているフィビオン派、ないしボルボロイ派の「祈り」については、他にも以下がある。
ミサにおいて、キリストの名のもとにセックス、乱交が平然と繰り返されていた例としては、他にグノーシス主義のマルコス派、ヴァレンティノス派(いわずと知れたグノーシスの最大グループ)、そして中世ではかのアダム派が少なくとも存在している。 その中でも、エピファニオスやフェリクスが報告しているこのフィビオン派は、詳細に渡ってミサの内容が記録されている(ルドルフは誇張されているといっているが)点で注目に値する。 このブログのキリスト教関連の記事を熟読、かつ分析されている方々には今更いうまでもないが、キリスト教正統派としてのローマ・カトリック教会は、セックスに関して次の二つの観念を持っている。 ・快楽敵視 ・禁欲 この禁欲を解放するシステムとして、グノーシスの過激な一派が存在していると見ることも可能である。 ちなみに、現代日本にもフィビオン派は存在している。 勿論、それは唯物論的なシステムとして、すなわちポルノグラフィーとして商品化されているわけである。 さて、ここで先述した「青年教祖の日常」に戻ろう。 彼はフィビオン派の教祖である。 彼の表の顔はカトリックだが、裏はグノーシスである。 彼の夜の怪しげなミサには、女性たちしか存在しない。 つまり、ここは徹底的に、「男ひとり、女が多数」という構成になっているのである。 これは私の無意識の言語化であり、私の欲望の表現である。 私の無意識の奥底には、このように「青年教祖になって、裏の顔を持ちたい」という意志が存在している。 しかし、私はそれを実現することが不可能である。 だからこその無意識であり、妄想なのである。 私は、実は告白すると、このフィビオン派の教義と、信徒の男女構成が先のような場合、それがエロスのシステムとしては最早「魔王」のレヴェルにまで到達していると確信している。 これは現在の私が考える、最高に野蛮な、そして最高に神秘的で魅惑的かつ犯罪的なエロスの最高形式である。 これはポルノグラフィーである。 フィビオン派に関するエピファニオスの記述内容は、ショッキングな彼の言葉「彼らは全裸で祈る」に端的に表明されているように、徹底的にポルノ的である。 だとすれば、我々は既にフィビオン派の「ミサ」を何らかの映像媒体を通して閲覧している可能性が高い。 フィビオン派は実在する。 しかし、フィビオン派が宗教システムであったのに対し、ポルノは単なる商品に過ぎない。 ポルノは神学ではない。 しかし、フィビオン派は神学を内部に有しているのであり、同時にその教義システムを人生の柱にした信徒たちが存在するのである。 これが双方の差異であり、フィビオン派が世界に存在する全てのポルノを越えた天上的なエロスを宿している証明である。 フィビオン派に実在したかもしれぬ「青年教祖」の魂は、エロスそのものであり、肉慾の王であり、怪物であり、サタンその人である。 フィビオン派の青年教祖にとって、世界は単数のペニスと、圧倒的多数のヴァギナとして編成される。 それが彼の存在論的形式なのである。 彼は射精するたびに、イエスに接近する。 女性信徒は彼の精液を手にしながら祈る。 これは男根的な世界表象である。 いわば、男根的な反フェミニズムの極北である。 我々は、このような宗派が実在したということに対して、どのような「祈り」「思考」が残されているであろうか? 繰り返すが、カトリック教会が封殺し続けているセックスと快楽の問題に割り込むためには、何としてでもセックス、欲望、ペニス、ヴァギナ、子宮についての神学的な欲望原理が必要である。 私は今、この宗派の存在に気圧されている。 それは戦慄すべきものである。 どのように、この問題に対峙すればいいのであろうか? ![]() 「Il rapimento 」 by Bruno Di Maio 無意識の解体 子宮は、常に複数形を持って現‐有をイエス・キリストへと向かわせる。 「子宮」とは何であるのか? 我々は子宮を持っていない女性――母親になることのできなかった女性――の存在をけして忘れてはならない。 しかし、我々男性自身も、やはり子宮を持ってはいないのである。 私は端的に「子宮」に強い関心を抱いている。 子宮はそれ自体でエロスの最高形式であるだけではなく、キリスト教はおろか、グノーシスをも内包した宗教システムの核心である。 子宮は、我々を包摂するだけではない。 子宮とは何であるのか? 子宮の傍を、我々が我々の「力」を宿したペニスによって痙攣させる時、女性たちは「潮吹き」をすることがある。 「潮吹き」とは何であるのか? ゲルマン神話によると、世界の起源とは「巨大な穴」である。 この穴はギンヌンガ・ガプと呼称されている。 この穴にやがてニヴル・ヘイムが誕生するが、この世界の中心には「泉」があり、絶えず水を湧き上がらせている。 この神話的イメージの根源に存在しているのはセックスではないのか。 巨大な穴、ギンヌンガ・ガプとは女性の膣内であり、「泉」の噴出とはまごうことなき「潮吹き」である。 何故、我々「ペニス」を宿した人間は、「たった一人の女性」で満足できないのであろうか? 何故、ペニスは単数のヴァギナではなく、複数形としてのヴァギナを常に欲望するのであるか? キリスト教の性道徳が最も嫌悪するもの、それは「ハーレム」である。 ハーレムとは、ひとりの男性に複数の女性たちが取り囲む、かの「家」を意味する。 私はここで、私自身の「無意識」の世界を最も鬼気迫った形式で徹底的に告白しようと決意する。 私の欲望とは何か? 私が「女性」とのセックスを意志し続けていることはいうまでもない。 しかし、それはカトリックの私にとってソドムへの道であることもまた真実である。 場合によれば、私は破門される危険性すらある。 私は私自身の無意識の構造に多大な関心を寄せている。 私ははっきり書くが、「たったひとりの女性を愛する」ことが自分にはできそうもないような予感がするのだ。 私は定期的にマスターベーションを繰り返しているが、私が私のペニスを握りながらイメージしている性的世界の内実とは、常に「たったひとりの女性との性交」ではないのである。 それは、常にハーレムである。 私はハーレムとは何かをしかし、これまで考察することを怠ってきた。 それは、思考を愛する者として失格ではないのか。 ハーレムとは何であるのか? それは、徳川家斉のように、生涯に58人の子供を作り続けた男性として到来する。 彼は一般的な男性のセックスを知らない。 彼は、間違いなく「複数の子宮」に愛着を寄せていたはずだ。 家斉の生活していた環境世界の通奏低音とは、「平穏さ」である。 我々は彼が20人ほどの女性に出産をさせたという事実を知っている。 ハーレムとは何であるのか? ハーレムというのは、複数の女性の子宮が「有る」ということである。 世界に女性しか存在しないと考えてみよ。 そこにたったひとりの男性のみが存在し、彼の周りはみな女性であると本気でイメージせよ。 すると、そこから一体何が得られるであろうか? それは、男性中心的な性表象の世界である。 もしも、世界に男性しか存在しなくなり、たったひとりの女性のみが生き残るとせよ。 すると、我々ペニスを持ってしまっている人間にとって、怖ろしく退屈な世界が現前するであろう。 「私である男性の周りに、女性たちが沢山存在することを私は欲望する」 この男性側の性的欲望は、そのまま女性側でも鏡像関係を持っていると考える。 すなわち、 「私である女性の周りに、男性たちが沢山存在することを私は欲望する」と。 女性がひとり存在し、彼女の周りに無数の魅力的な青年たちが取り巻いている光景――その甘美な光景は、我々生物学的男性にとって、一体何であるのか? 私は告白するが、そのような状況下にある女性を見たときに、彼女が淫猥であるとは感じない。 むしろ、彼女には支配欲が強いのであると感じる。 女性がひとり存在し、彼女の周りが全員ハンサムな美男子で一式染まっていると仮定せよ。 すると、彼女は女王蜂であろうか? 彼女は全員とセックスをして、全員それぞれ顔の異なる子供たちを生むことを欲するであろうか? もしも「然り」という女性がひとりでもいるのであれば、私は平穏になるのだが。 何故なら、この反転が、私の無意識を構成しているからである。 今、我々は「全員がハンサムな美男子である」ことを条件のように書いたが、実際は「ペニス」さえ持っていればそれで良いのである。 重要なのは、「男&男&男&男&男&女&男&男&男&男&男」という構図なのだ。 女性ひとりに対して、複数のペニスが「有る」ということ。 それは、子宮が「ひとつ」に、ペニスが「無数」に、ということである。 この反対は、ペニスが「ひとつ」に、子宮が「無数」に、ということであるが、我々は、いずれにせよ、このような動物的な種の保存の意志を宿しているといわざるをえない。 私は男性であるが、男性とは何かを知らない。 同時に、私はそれ以上に女性とは何かを知らない。 ただ、私は勃起したり、排泄したり、射精したり、悔い改めようと努力したりする、そういう人間であるに過ぎない。 私がマスターベーションをする時に、常に「ハーレム」的な性的環境を意識するということは、私がカトリックであるということと何か関係があるのであろうか? カトリックは、「ひとりの夫、ひとりの妻」という、「アダム&イヴ」の対形式を愛している。 イヴは二人も存在しない。 アダムは二人も必要ない。 夫婦は、夫婦である限り、常に「ふたり」なのだ。 だが、私はカトリック的な夫婦の「ふたり」で「有る」ということに憧憬を抱く一方で、「複数の女性が別に外部に存在する」という環境に欲望を抱くのである。 これは一体何故なのだろうか? 私は、ひとりの女性がふたりの魅力的な男性と同時に付き合い、しかもその一方が私であった場合を仮定しよう。 その場合、私は激怒するであろうか? おそらく、私は静かに彼女に幻滅して去るだけであろう。 何故幻滅するのであろうか? 女性が、二人の男性と同時に器用に交際し、セックスを愉しむという日常風景に対して、私は何かそれについて考えねばならない問題性を見出すのである。 彼女は複数の男性のペニスを所有している。 男性は愚かしくも、自分以外にも彼女の子宮を愉しんでいる男性が存在することを知らない。 男性は常に無知であり、女性は常に性的に一歩先を生きている。 女性はこの時、二人の男性とのカラーの異なるそれぞれの「愛の果実」を味わっているといえるのか? 本当にそのような芸当が可能であろうか? 女性は利用されているのか、男性側にもやはり他に女性がいるのであろうか? 今、私は先述して、自分が好きになった彼女に、別のボーイフレンドが存在したことを仮定した。 このボーイフレンドの存在を赦しながら、なおもまだ彼女と交際するという選択肢はまずもって私には存在しない。 私はこの女性が端的にずばり「ずるい」と思うわけだが、それ以上に、「利用されてきた」という失望、絶望に襲撃されるであろう。 これと同じことが、女性側にもいえるであろう。 つまり、私がひとりではなく、ふたりの女性と仮に器用に交際する場合、その事実が発覚すれば、私は「ふたりからの愛」を同時に喪失するのである。 この私に、男性は自分自身を当てはめてみよ。 このプロセスがまずもって高確率に予想される由縁は、男性が二人、女性が一人という状況下で既にシミュレーションしたはずである。 以上から、私は「相思相愛」以外の愛は危険であると感じる。 相思相愛とは、イエス様の恵みの力によって、ひとりの男、ひとりの女が組み合わせになることである。 「男×女」であり、「男×女×男」でも、「女×男×女」でもないのである。 だが、私には別の奇妙で軽快な感情も存在する。 それは欲望といってもいいであろう。 すなわち、別に、私以外の男がいても、その彼と私の気が合えば、我々は二人で仲良くたったひとりの彼女を同時に犯すであろう、ということである。 この時、我々男性側は、「ふたりの男がひとりの女に快楽を与える」行為に耽るわけだが、ここで最高に重要なのは、何らかの形式で、我々男性の方が、「女性の欲望」を「代理」しているということである。 或いは、それを「憑依」させているといったほうが良い。 女性が同時に二本のペニスを愉しむことに性的な至福を見出すなら、我々男性はむしろ彼女に至福を与える、一種の「性的なホスト」の役割を担うようになるであろう。 このような青年的で遊戯的な感覚が私の中に存在するが、これは反転して女性側にも見られるはずである。 私がこの記事で一体何を記したかったのかというと、私の無意識の文字化である。 無意識は文字化させねばならない、それを誰かに話すだけではなく、しっかりとエクリチュールとして行為せねばならない。 ラカンの講義の幾つかを読んでいて、私は彼がこのことしか結局は述べていないような気がするのである。 無意識は目に見える形式で、整理しておかねばならないし、把捉すべきである。 私はハーレムが好きだ。 私は女が大好きだ。 私は萎んだペニスより勃起したペニスが好きだ。 私は精液が好きだ。 私はセックスなら何でも好きだ。 このような如何わしい無意識の世界を、たとえ幼稚なものであれ、一度言語化すると、確実に自分の正体が見え隠れし始める。 私は女性が好きだが、女性の何が具体的に好きなのか? 身体的にはどの部位か? 心理的にはどのような性格の持ち主か? マスターベーションをする我々は、皆頭の中で「性的な表象」を持っているはずである。 それを包み隠さず言語化することによって、主体性の核心が見え始めるのではないか。 それは、むしろ赤子のような言葉だけで構成されている可能性すらあるのではないか。 私が好きな女性の身体的部位は、乳房とヴァギナである。 乳房といったが、それは豊満な胸の上に乗ったはちきれそうなチェリーのような乳房である。 こういった部位を何故好きなのかといえば、私には無いからである。 「あのひとには僕にはないおっぱいがあるよ」 このような「不在」の感覚を満たすものとして、女性が有る。 だが、逆に私には女性が希求しても身体化は不可能であるところのペニスがある。 私はそれを母親が出産する時から既に持っていた。 我々男性には「ペニス」が有るが、女性には無い。 しかし、女性には「子宮」が有るのである。 どちらも意味論的に等価であり、いかなる優越も存在しない。 男根ロゴス中心主義批判それ自体が、女性側のある種のヒステリーから生み出されたものだったのかもしれない。 ペニスと子宮は等価であり、双方は共に神が創造された最も重要な器官である。 それは本気で大切な器官である。 オリゲネスが欲望と縁を切るために自分のペニスを切断したのは、愚劣であるといわざるをえない。 男性と一言でいっても、千差万別であるように、女性もそうである。 同じ愛の言葉でも、ある女性には甘美に、また別の女性には卑猥に聞こえることもある。 そういう多様性の点では、「男性とは女性であり、女性とは男性である」といっても過言では無い。 どちらも互いの性を補助‐代理的に無意識に吸収/同化しているのである。 ある女性より、実質的には男性である彼に女性性を見出すこともあるであろう。 男性の言動の内部に「女性性」が存在するのである。 同時に、女性の言動の内部に「男性性」が存在するのである。 言動とは無意識の構造から発出するものである。 我々の魂は煉獄でどの程度「火傷」できるのであろうか?
この魔法のようなテクストは、煉獄論を知る上での核心である。 典拠は12世紀に記されたといわれている古フランス語訳の『Li Dialoge Gregoire lo Pape(教皇グレゴリウスの対話)』である。 これを翻訳すると、以下になる。 これは我々カトリックの若者にとって、極めて記憶に値するテクストである。
この「浄罪の火となるような一つの試練」こそが、かの「煉獄」である。 キリスト教神学史上、最初に「煉獄」がヴァチカンで公式に認定されたのは、1274年の第二回リヨン公会議であるとされているが、中世学の世界的な権威ル・ゴフはインノケンティウス四世が既にシャトールーのオド枢機卿に宛てた手紙の中で、「煉獄」を教義に取り込もうとしている様子を報告している。 これより以前にも、「地獄」「天国」という二文法思考に「媒介項」を導入しようとする動向は見られた。 例えば、ヘールズのアレクサンデル(1185?〜1245)はその『ペトルス・ロンバルドゥスの命題集に関する注解』の中で、以下のように語っている。
「煉獄」という、天国でも地獄でもない「魂の状態」(ここは空間でも、亜‐空間でもない)を最初に発明したのは、3世紀のアレキサンドリアのクレメンスとオリゲネスであるとされている。 彼らに拠ると、「義人」は煉獄の火をそのまま「通過」するのだという。 しかし、「軽い罪人」(つまり小罪を犯した人たち)は、そこに幾らか「滞留」し、完全に浄化されてから「天国」へ向かう。 これと同じ原理で、「大罪者」は「長期滞留」するのだという。 4世紀に登場したポワティエのヒラリウスによると、「非キリスト教徒や無信仰者は地獄へ堕ちる」のだという。 同じ4世紀に活躍したアンブロシウスは、「われわれは信仰によって救われる」と、パウロの信仰義認説を反復している。 煉獄とは、いわば非信徒でありつつも、小さな罪、ないし大きな罪を犯してしまった者のために用意された宗教的プログラムであると規定可能である。 聖ヒエロニムスは、このプログラムの最適化について、
と語っている。 ちなみに、「煉獄の火」は皮膚感覚的な痛覚にどれほど訴えるかについて、そもそも煉獄は「魂の状態」であるので、通常の意味での「熱い苦しみ」は無いと考えられる。 ラクタンティウスは4世紀に『神学教程』の中で、「義人は炎の熱さを感じない」と断言している。 これは「通過」するからである。 しかし、「炎の熱さ」を感じないのが「義人」であるのは判明したが、そうではない人間も感じないかどうかについては更なる探求が必要だ。 すなわち、「煉獄における火傷性」の概念の浮上である。 煉獄で我々は果たして「火傷」するであろうか? もしも、火傷が身体に傷を与える、あの痛ましい刻印を示すのであれば、煉獄にはそのようなレヴェルでの火傷は存在しないであろう。 煉獄での火傷とは、いわば地上で罪を犯した分が、煉獄で傷となって自分に出現するのを、自分自身で「癒す/治す」行為ではないのか? 自分で治すといったが、煉獄での医者とはやはりイエスである。 したがって、一般的なカトリックの信徒で、罪を罪と認めて悔い改める敬虔さを忘れない者であるならば、彼らは煉獄でそれほど苦しむことがないであろう。 聖トマス、マイスター・エックハルトの師であるアルベルトゥス・マグヌスによると、煉獄の存在を否定すれば「異端」になる。 しかし、彼はこうもいっている。
彼の弟子の一人である、ストラスブールのフーゴは、更にこの楽観的な見解を敷衍させるだろう。
煉獄論の論客の中で、最も記憶に値する特異な神学者が存在する。 それはオリゲネスである。 彼はほとんど衝撃的ともいえる煉獄論を展開している。
地獄が暫定的である、というこの彼の確信にはかなりの熱意が感じられる。 オリゲネスにとっては、異端審問にかけられて火炙りになった者も、大量殺戮を政治的に実現させた者も、一度も悔い改めることなく姦淫を繰り返した者も、全員が例外なく、いずれは「天国」へと達する。 オリゲネスは後世になって異端視されたわけだが、彼は「信徒/非信徒」という差異化の原理に人一倍敏感であったように思われる。 キリスト教徒だけが天国へ行き、そうではない者は地獄へ堕ちるという発想は宗教的に異端であると我々21世紀の青年は断言すべきである。 重要なのは、「他なる思想、宗教、文化を有する他者への顧慮」である。 これを敏感に意識すれば、異教徒が地獄へ堕ちるなどとは断じていえない。 オリゲネスもそれを察していたに相違ない。 しかし彼は、地獄にすらいずれ天国からの救いが訪れるというのであるから、これは「責任論」へと転化しもする命題である。 オリゲネスの地獄論は、地獄に「穴」が空いているようなものである。 これは「責任」の問題と密接に関与している。 娘を殺害された遺族と、殺した犯罪者が共に同じ「天国」へ向かうなどという発想は、裕福な家庭で恵まれた生涯を送った神学者だけに赦された悪しきブルジョワ的神学であるに過ぎない。 地上で罪を犯せば、それだけの「火」で焼かれる、と私は考えている。 ハイデガーは「言葉の罪」を犯したわけだから、煉獄にいるのは確実である。 しかし、ハイデガーはカトリック神学にも多大な影響を与えているので、その功績は批判的に組み込んでやらねばならないだろう。 オリゲネスの煉獄=地獄論は、生きとし生ける者全員に天国を約束するイノセンスな神の言葉から到来しているが、それは同時に悪魔の誘いでもある。 罪を犯せば、繰り返すが「火」で「責任」を負わねばならない。 だからこそ「赦し」が到来するのである。 もしも「責任」や「謝罪」がない場合、その時、その者は既に地上で裁かれているだろう。 煉獄論というのは、結局は地上での「交友関係論」である。 交友関係において、どのような働きをしたかによって、煉獄での「火」が決まる。 我々は死後まで、全て管理されているとも考えることができる。 しかし、これは本質的なことであるが、聖書にはいかなる「煉獄」についての指摘も存在しない。 神学者たちは煉獄論の起源をパウロのディスクールに求めているが、パウロはアレゴリーとして「火」という表現を用いている可能性もある。 COMMENT
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