† 美術/アート †

ルイス・ウェインの、「猫」の生成変化のプロセス

この記事では、ルイス・ウェインの猫と、「最後の神」について私なりの思考を展開する。
ルイス・ウェイン(Louis Wain 1860 - 1939)は、可愛らしい猫を描くことを愛していたイギリスの有名なイラストレーターである。
この画家が「最後の神」から非常に愛されていたことは彼の作品の後期形式を目にすると一目瞭然である。


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猫は極めて具象的であり、明敏かつ明晰である。
猫の瞳は、限りなく「ローマ・カトリック教会」的な伝統性と堅固な信条、甘美な祈りの形式を反映する。

ルイス・ウェインはこの時点で、未だ「最後の神」と対峙してはいない。
「最高度の高揚は、常にあるひとつの神を抹殺することでなければならない」(マルティン・ハイデガー)ように、彼の神は未だその魂を火山のように猛らせてはいないのだ。


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この絵も未だ「最後の神」を隠し込んでいる、といえる。
この絵には既にある種の「不気味さ」「怨念」が漂い始めているが、未だ狂的ではないし、いかなる分子状の生成変化も生起してはいない。
猫たちの笑い方は暗黒に沈んだ絵本や童話を想起させ、悪夢的あまりに悪夢的ではある。
だが、ここには「狂度」が存在していない。
ここには「恐怖」が潜在的に覚醒するのを待っているのみである。


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少年は「火刑」に処されている。
「最後の神」へと、分子状の生成変化を遂げるためには、常に「贄」が必要である。
ルイス・ウェインも、「猫=神への生成変化のための媒介項」と、「火刑=洗礼式」の関係性をよく理解していた。
この定式は「狂度」の高まりにおいてのみ理解される次元であって、通常の学問的な哲学及び神学を学んでいる人間には絶対に理解されないのだろう。


以下に掲載するルイス・ウィエンの絵は、私がこれまで見てきたあらゆる絵画、あらゆる彫刻、あらゆるデッサンの中で、最も禍々しく最も狂的で、最も「最後の神」の姿形を正確に描いたものということができるであろう。


Lewis Wain    1920s


これは、彼が統合失調症を発病してから描いた、この上なく重要な「最後の神」の形式である。
私はこれを初めてみた時の、壮大な感動を今でも維持し続けねばならない。
「猫」の生成変化は、神学的なプラトーにおいては、「キリスト教の神」それ自身の「メタモルフォーゼ」を象徴しているのである。
これがハイデガーが暗示させていた「最後の神」が、人類によって把握された最初で最後の形式に他ならない。


ルイス・ウィエンの抽象機械の仕掛けは以下である。


まず、同じ対象を追い求めること(例えば、常に童話チックな猫たちの晩餐)。
次に、猫たちの、非常に遅々とした生成変化。
最後に、「これは猫である」ということを、通常の感覚では「それは絶対に猫ではありえない」という対象に対して意味賦与すること、ここがこの画家の名を恒久のものにしたといえる。




我々は、カトリック信徒としてのみ祈る必要性などない。
我々はそもそも、いつでも「神」を、従来の「神」を、廃棄できるだけの「狂度」を宿していなければ、真のカトリック信徒ではない。
我々がカトリックであるということが、最高度に重要性を帯びるのは、我々自身の手によって「神」を生成変化させる時なのである。


「祈れ、主よ、我らの可愛い猫のために」


繰り返そうではないか、パウル・ツェランのように。



「祈れ、主よ、我らの大いなる火炎のような猫のために……」









Louis Wain

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


生涯

ルイス・ウェインは1860年8月5日にロンドンのクラーケンウェルにおいて生まれた。6人兄妹の長兄であり、彼以外の5人は皆女の子であった。彼女らは皆未婚のまま共に生活し生涯を終えた。ウェインが13歳のときに妹の一人が精神病を患い療養所へと送られている。

ウェインは学校を抜け出しロンドンを歩き回ることが多かった。後にウエスト・ロンドン美術学校を卒業し、短期間であるが教師として働いている。20歳の時に父が死去し、彼が母と妹の生活費を稼がなくてはならなくなった。


初期の作品

ウェインの作品の特徴である擬人化された猫の絵は好評を博した。ルイスは給与の安い教師の職を辞め、フリーの画家となることにした。 イラストレイテッド・スポーティング&ドラマティック・ニュースやイラストレイテッド・ロンドン・ニュースをはじめとする雑誌の挿絵として動物画や風景画を描き賃金を受け取った。1880年代を通してウェインは英国の家屋、敷地の詳細な絵や家畜の絵などを描いている。ある時点においては犬の肖像画を描いて生活していこうとも考えていた。

23歳になったウェインは妹の家庭教師であったエミリー・リチャードソンと結婚した。彼女はウェインよりも10歳年長だったが、これは当時のイギリスではやや問題視されることである。二人は北ロンドンのハムステッドで生活を始めたが、エミリーはガンに冒され結婚の3年後に死去してしまった。病に苦しむエミリーはピーターという飼い猫をかわいがっており、妻の余興にしようと考えたウェインはピーターに眼鏡を着けさせ読書をしているかのようなポーズをとらせたりしていた。後にウェインはこの猫について、「私の画家としての創造の源であり、後の仕事を決定づけた」と語っている。この頃のウェインの作品の多くはピーターをモデルとしている。

1886年に擬人化された猫を描いた彼の作品がイラストレイテッド・ロンドン・ニュースに掲載された。『猫達のクリスマス』と題されたこの作品には150もの猫が描かれており、お辞儀をする猫、ゲームをする猫、他の猫の前で演説をする猫の姿を描写している。猫は皆4つ足で服も着ておらず、後の時代のウェインの作品を特徴づける人間らしさは見られない。

さらに時間が経過すると、ウェインの描く猫たちは後ろ足で立って歩き、大口を開けて笑い、豊かな表情を有して当時の流行の服装を着こなすようになった。楽器を演奏する猫、紅茶を飲む猫、トランプを楽しむ猫の他、釣り、喫煙、オペラ鑑賞と人間のすることはみな行っている。このような動物の擬人化はヴィクトリア朝における流行であり、当時のグリーティング・カードや戯画にしばしば用いられた。ウェインやジョン・テニエルの作品はその代表例である。

ウェインは多作な画家として知られており、以後30年間で残した作品は数百にも上ると見られる。彼は100あまりの児童書の挿絵を執筆し、新聞、専門誌、雑誌と様々な場所で作品が掲載され好評を博した。1901年から1915年には"ルイス・ウェイン年鑑"なる書籍が発売されている。

作品においては時代の流行に追いすがろうとする人間社会に対する風刺や皮肉もちりばめられている。ウェインは「レストランなどにスケッチ・ブックを持ち込み、その場にいる人々を猫に置き換えて、できるだけ人間臭さを残したまま描く。こうすることで対象の二面性を得ることができ、ユーモラスな最高の作品になるんだ」と述べている。


背景に抽象的な幾何学模様の描かれた作品。この時期のウェインは同様の絵を多く残している。このような作品は彼の統合失調症の悪化を反映していると指摘する者が多いが、単に母が編んだ手作りの織物を描いた"壁紙を背景にした猫"にすぎないとする者もいる。
王立ベスレム病院における作品の一つ。入院中に描かれた作品の多くはこれとは異なり過度に抽象化されている。ウェインは動物に関係したチャリティー活動へも参加している。口のきけない我が友連盟評議会 (Governing Council of Our Dumb Friends League) 、猫保護協会 (Society for the Protection of Cats) 、反生体解剖協会 (Anti-Vivisection Society) などである。全国猫クラブ (National Cat Club) においては議長として活躍していた。猫への軽蔑観を取り除く手助けができると感じていた。

作品の人気の高さにも関わらず、ウェインは常に金銭に困っていた。母と妹たちの生活費を稼ぎ出さなくてはならず熱心に働いたが、経済的な感覚に乏しいことが仇となった。気性は穏やかでだまされやすく、作品を安く買いたたかれ、権利関係は取引相手に任せっきりで割の悪い契約を押し付けられることもあった。1907年のニューヨークへの旅行においては作品は高い評価を受けたものの、後先を見ない買物の為に懐具合は旅行前よりさらに悪化してしまった。

心の病

この時期を境としてウェインの人気にもかげりが見え始めた。それと歩を合わせるようにして精神的にも不安定さが増していった。周囲の人々から『チャーミングだがちょっと変わった人』と評価されることが多かったウェインだが、次第に現実とファンタジーの見分けがつかなくなっていった。話し振りも舌がもつれて何を言っているのか理解できないことが増えていた。そしてウェインの行動や言動は決定的に変わってしまい、妹の一人と同じように精神病を発病してしまう。ウェインは妄想に苦しみ、優しい兄であった彼が疑い深く敵意に満ちた性格へと変貌してしまった。ウェインは「映画のスクリーンのちらつきが脳から電気を奪ってしまう」などと主張するようになった。夜には通りを彷徨い歩き、家具の配置を何度も変更し、部屋にこもっては支離滅裂な文章を書き連ねた。

1924年になり彼の言動そして暴力に耐えきれなくなった姉妹によって、ウェインはスプリングフィールド精神病院の貧困者用病棟に収容された。1年後ウェインが病院に隔離されていることが知られるようになると、H・G・ウェルズなどの嘆願と当時の首相の介入により、彼の治療環境は改善されるようになった。ウェインは王立ベスレム病院へと移され、続いて1930年には北ロンドンハートフォードシャーのナプスバリー病院へと転院された。この病院には患者たちのために心地よい庭が用意されており、そこには数匹の猫が飼育されていた。ウェインは死去するまでの15年間をこの施設で過ごし、本来の穏やかな性格を少しずつ取り戻していった。気が向けば以前のように猫の絵に取りかかったが、その作品は原色を多用した色使い、花を模した抽象的な幾何学模様などで構成されている。

精神病学の教科書において、ウェインの描いた表現法の異なる4つの作品が、病状の悪化と比較され説明されることが多い[1]。しかしこれらの教科書において示された作品の作成時期には誤りがあり、正確に反映したものであるとは言えない。

H・G・ウェルズはウェインについて、「彼は自身の猫をつくりあげた。猫のスタイル、社会、世界そのものを創造した。ルイス・ウェインが描く猫とは違うイギリスの猫など恥じてしかるべきである」と記している。





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~ Comment ~

No title

面白い絵を紹介してくれてありがとうございます。
ルイス・ウェインにすごく惹かれます。
[2010/02/06 08:37]  緑雨  URL  [ 編集 ]

No title

りょっくんも、もしかしたら俺が書きたかった感覚的なものが感じれるのかもしれませんね。
高校の頃、どっかのサイトで「猫畑」って小説を読んで、その作者がルイス・ウェインについて特集してたのを今でも覚えてます。

その小説を、最近検索して探したんですが、なかなか見つかりませんでした。
もしかしたらもう削除されたのかもしれませんが、物凄い狂度を感じさせる稀有な作風でした。

[2010/02/07 05:42]  鈴村智一郎  URL  [ 編集 ]















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