† キリスト教神学 †

ある女教祖の教義書について

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by Michael Pacher


「災厄」とは何なのだろうか。

キリスト教、とりわけローマ・カトリック教会で私は洗礼を二十一歳の時に受け、二年余りが経過した。
その間、私は一体いかなる概念に注目し、その発展に寄与したのだろうか。
答え、何ものにも寄与していないばかりか、怠惰であった。


「災厄」とは何なのだろうか、例えば、「火炎」とは何なのか?

私は今、ブログでこのような奇妙な黒の書を記しているが、それは何のためなのか。
答え、あることを考えないように仕向けるため。
では、そのあることとは根源的には何であるのか、何であったのか、何故隠すのか?

「災厄」は本当に到来するのであろうか、或いは、既に来たのか?

何故、ひとは温暖な無人島で、誰もいないが恋人だけは存在する海辺を夢想するのか?
何故、ひとは無人島に恋人を連れていきたいと欲望するのであろうか?
答え、それはアダム堕罪以前に深い関連がある。

「災厄」とは「犬を投げる」ことなのか、しかも「死んだ犬を投げる」ことであるのか?

何故、少年少女は最果ての聖域として「遊園地」を目指すのか?
昼、或いは、夕暮れの遊園地。
だが、遊園地は「廃墟化」する。
大人になった彼らは、そこで一体何を愉しむべきか?
答え、底知れない火炎のような肉慾を。

「災厄」とは、静けさのことであろうか?

常態としての災厄、すなわち、日常が全て災厄的であることが、逆説的には「救い」となるということ。
本を持って、誰もいない遊園地で読書できる人間は、アダムと同じほどに高貴である。
静けさ、不安の除去ではなく、不安を優しく守護し、抱き締めること。
災厄を待望するのは、カトリック教会ではなく、我々「教団」の教義に属する。

「災厄」を待つ、その教団とは、しかし架空の教団である。

架空の教団、存在してはならない教団、例えば何か具体的な悪事を実践しているということ。
だが、悪事とは何であるのか?
いかなる悪事もレディメイドである。

教祖は常に「オンナ」である。
それは一貫されねばならない。
神とは「子宮」であり、「乳房」であり、祈りとは「セックス」であり、ロザリオとは「口紅」である。
だが、このままでは単なる娼婦街に過ぎない。
我々が求めているのは一過性の交接ではなく、「無限の交接」である。
いわば、神々とのセックスである。

「神」とセックスすることは可能であろうか?

教団は、洗脳するために世界を巡るのではない。
教団は、探るために存在している。
いわば教団とは、複数の探偵機関である。
では、何を探るのか?
何を拾うのか、何を集めるのか、何を見つけるのか?

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