† 美術/アート †

ダナイスにおける戦闘論

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哲学も、神学も、恋愛も、全てが私にとって絶望的であると悟った今、私に残されていることとは何であるのか?
根源的に問い直さねばならない。
「哲学は役に立たない」(by ハイデッガー)。

今の私のこの圧倒的な空虚感は、ただひたすらアルトドルファーのこの絵にしか投影できない。
私はこれまで小説を書いてきたが、“最早それも私を救いはしない”。
私は明日にでも自殺すべきであるのか自殺すべきであるのに自殺しないのは私が勇気ではないためか自殺するために勇気が必要であるならば全ての自殺者は英雄とみなすべきか?


アルトドルファー、貴方は何も理解していない。
この絵には細分化されたレゴ人形の如き人物しか存在しない。
これは真の「アレクサンドロスの戦い」ではない。
これは断じてそれではない。
これは茶番だ、チャンダラだ。


Anghiari   20Rubens


少し私の今の感覚に近付いただろうか?
この絵は、つまりこの絵を描いたレオナルドは。
今の私は本質的に「戦闘」を欲しているのだが、この絵はまだ「戦闘」をしてはいない。


現代の日本のカトリック中央協議会は、閉塞的な麻痺的状態に陥って久しい。
日本のカトリックは平々凡々と祈り、時代遅れな神学生を無意味に世に送り出しているだけに過ぎない。
カトリックに明日は無い。
私はパスカルの生を反復しようとしているのではない。
パスカルも確かに洗礼を受けた二年後には既に不信を患っていたと聞くが、「不信仰」は疾患ではなく、天才の条件である。
「真の信仰は、不信仰の危険に曝されていなければ、それは信仰ですらない」(by ハイデッガー)。


Head-stu   dies



どうすれば、ありふれた平穏な幸せに到達できるのであろうか?
このままでは死んでも死に切れぬ。



Head-of-a-Warrior-(or-The  -Red-Head)


どれほど巧緻なデッサンであれ、こんな絵は私にとって紙屑に等しい。
これにも「戦い」や「大いなる高貴さ」が欠損しているのだ。




Rodin  1



ダナイスはどうであろうか?
二年前くらいだろうか、私はロダン関連の本を府立図書館で読み漁っていた。
その時は、ダナイスの美しさがよく判らなかった。
無論、今も実物ではなく写真でしか知らない私は何も知らないに等しい。
だから語れない。
だが、ここには極度に美しい「戦闘」の美を私は見るのである。



Danai de



あらゆる戦闘は、つまりあらゆる他者を殺傷せしめる破壊力を有する「戦争」は、美しくなければ「戦争」ではない。
戦争は美的でなければならないのである。
ダナイスには世界を崩壊させるだけの美があるに違いない。
私の今の創作的な倦怠、あらゆる破滅的な予兆を持った失望、惰性的な憂鬱、それらを打ち壊すためには、ダナイスが必要なのである。
ロダンはこれを「狂気」にかられて彫ったのではないか?
そうあるべきである。
美は「狂気」に愛されていなければならない。
美とは、狂度が最高度に高まるその瞬間と、その終わりの「はざま」に君臨する女王である。



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