† 美術/アート †

ファッションと絵画の決定的な差異

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私は、人間が微笑んでいる顔は美しいと思う。
全ての画家が微笑んでいる顔を美しく描いた訳ではないが、微笑んでいる顔は微笑ましい。


ただ、苦悩している顔が美しい場合もある。
ずっと前に私は聖ヒエロニムスの図像を集成した専門書を借りて読んだことがある。
そこには、数知れない彼のイメージが描かれていた。
どれもに画家それぞれの魂が込められてはいたのだろうが、その多くは表情に乏しかった記憶がある。


それまで、聖人が「苦悩している顔」は、どこか「微笑ましいもの」として描かれていた。
そのような慣習を私はヒエロニムスを描いた画家たちから感じていた。
聖人の苦悩は、「生々しい苦しみの瞬間」を失い、どこか偽善的で「仮面」を被ったような「聖性」で纏われていたのである。


その本はレオナルドについてはそれほど詳しく語ってはいなかった。
だが、その本は、おそらくレオナルド・ダ・ヴィンチが何故これほど有名になっているかを暗示的に語っていたように思う。
私はレオナルドの絵の中で、この未完の作品が一番好きだ。
これは彼が比較的若い時代に描いたもので、おそらく私の推測では、彼は「ヒエロニムスの顔」を描きたくて堪らなかった。
それまでの画家らが、あれほど「のっぺらぼうじみた顔」ばかりを描いていたのだから、迫真に迫る衝撃力を求めていたのだろう。


この絵の苦しみは、美しい。
その一言だけで、ヒエロニムスだけでなく、その他多くの聖人たちの殉教時における苦悩の美的な側面が伝わる。
足元に獅子がいるのは、ヒエロニムスとこの動物についての伝承があるからだ。
足にとげが刺さった獅子を救い、それ以後、獅子はヒエロニムスの忠実な相棒となった。
しかし、絵を観る限り、レオナルドは獅子に何の関心も無い。
断っておくが、獅子は必要ではないのだ。
重要なのは、このカルキスの砂漠で苦行していた男の「顔」である。


聖人の苦悩する姿が美しいといったが、私は人間の苦悩する顔もまたそうであると感じる。
若者の傲慢な顔には、いかなる美も存在しない。
若者が美しいのは、外見的にただ若くイノセンスなだけで、無知だからである。
若者は無知な分だけ、傲慢になれる。
だが、若い信徒も苦行を経ることによって、美化する。
この美化は外見的な要素を越えた何かの生起である。
美は、必ずしも視覚的に美しいということではない。
美は、人間の精神性が外部に表出されているその瞬間の刻印として、絵画上では起こっているのではないか。


そのように考えると、人間の服は「外見的な美」にどうしても依存してしまう側面を持つので、本来的な意味としての「美」よりも、幼い。
私には、この絵のヒエロニムスの顔の方が、2010AWシーズンのDior Hommeのポスターの青年のあの無表情で圧倒的な「ぼんやりしたつまらなさ」を感じさせる顔よりも、当然ながら美しいと感じる。
絵画とファッションでは全く次元が異なるが、ファッション誌のモデルの表情は、全てがどこかマリオネット的で奇奇怪怪ではないか。
それはレオナルドのような「人間のパッション」を放出しているのではない。
ファッション誌のモデルの顔貌性抽象機械は、おそらくデ・キリコのあの幾何学的なモンパルナス駅の無機質さと深い関係性を持っている。
ディオールのモデルたちは、常にキリコの画布に描かれている。


ファッション誌は服の製品情報であって、芸術についての本にはなりえない。
彼らは、レオナルドの絵を安易にプリントTシャツにして所有しようとしてしまう。
重要なことは、レオナルドが他の部分を全て擲ってまで、徹底的に聖人の「顔」を細密に描きこんでいることである。
「俺はここにしか関心が無い」
そう透徹した情熱的かつクールな画家の圧倒的なフォースが、私の魂を打つ。



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Leonardo di ser Piero da Vinci

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci、本名:Leonardo di ser Piero da Vinci、1452年4月15日 - 1519年5月2日) はイタリアのルネサンス期を代表する芸術家で、万能の天才という異名で知られる。「万能人(uomo universale)(ウォモ・ウニヴェルサーレ)」とも呼ばれている。

絵画、彫刻、建築、土木、人体、その他の科学技術に通じ、極めて広い分野に足跡を残している。『最後の晩餐』や『モナ・リザ』などの精巧な絵画は盛期ルネサンスを代表する作品になっている。膨大な手稿(ノート)を残しており、その中には飛行機についてのアイデアも含まれていた。


生涯

レオナルドは1452年、イタリアのトスカーナにあるアンキアーノ村で生まれた。生家は現存する。5歳からすぐ隣のヴィンチ村に移り住んだ。ヴィンチ家は13世紀より続くヴィンチ村では名の通った血筋で、父セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ (Ser Piero da Vinci)は公証人を務め、家は裕福であった。

母カテリーナ (Caterina) は農民あるいは木こりの娘といわれ、詳細は分かっていないが、ヴィンチ家に頻繁に出入りしていたとされる。父とカテリーナに婚姻関係は無い。しかし、「セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」という名前が与えられたことと、祖父アントーニオの日記に生まれた様子が詳細に記載されていることから、私生児とはいえレオナルドが望まれない子供であった可能性は低い。カテリーナはレオナルド出産の数ヵ月後にアントーニオ・ディ・ピエーロ・デル・ヴァッカ・ダ・ヴィンチに嫁いでいる。父セル・ピエロも同時期にフィレンツェ出身のアルビエーラと結婚した。

幼少期のレオナルドは、原因は不明だが正当な教育を受けず、自然とともに暮らしていた。当時から左手で鏡文字を書いたと言われるが、これは彼が読み書きの教育を受けなかったためともされる。この時期に、自由奔放な性格だったと言われる叔父から影響を受けたと指摘されている。彼の文字の癖は、父の公証人という仕事を継ぐことに大きな障害となった(当時、私生児は公証人になれないという規定があったため父の仕事を継げなかったという説もある)。

確証には欠けるが、レオナルドは14~16歳でフィレンツェに移ったとされる。画家見習いとしてアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に弟子入りし、ボッティチェッリらと共に学んだ。この工房でヴェロッキオの絵画『キリストの洗礼』の一部を描いたが、その出来は師匠ヴェロッキオを驚愕させ、以後ヴェロッキオは一切筆をもたなくなったという逸話がある。レオナルドに嫉妬したという説もあるが、工房の絵画部門は彼に任せて本業である彫刻に専念した、というのが真相らしい。 1472年にフィレンツェで画家組合「サン・ルーカ同心会」に登録されている。

1482年から1499年にかけて、レオナルドはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)に仕えながら、自分の工房を開いて独立した。レオナルドはイル・モーロから巨大なスフォルツァ騎馬像の制作を依頼されたが、戦争が迫ったため騎馬像のための銅が大砲の製造に転用されてしまい、計画は頓挫した。レオナルドはミラノで、ジャコモという非常に美しい少年を引き取った。ジャコモには盗癖があったが、レオナルドはサライ(=子悪魔という意味)の愛称をつけてかわいがったという。

1499年10月、ルイ12世率いるフランス軍が侵攻すると、イル・モーロは逃亡し、ミラノは戦わずに陥落した。レオナルドはミラノに留まったが、フランス軍の射手が騎馬像の粘土原型を練習の的にしているのを知り、ミラノを離れることにした。1500年、弟子のサライ (Salai)や友人のルカ・パチョーリと共にマントヴァへ行き、2か月後にはヴェネツィアに、暮れにはフィレンツェに戻った。

1502年8月から、レオナルドは教皇軍総指揮官チェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の庶子)の軍事顧問兼技術者として働いた。しかし8ヶ月程度でフィレンツェに戻り、アルノ川の水路変更計画や、ヴェッキオ宮殿の壁画・アンギアーリの戦い(未完)などの仕事に従事した。

1506年、スイスの傭兵がフランス軍を追い払うと、マクシミリアン・スフォルツァが治めるミラノに戻った。そこで、後に生涯の友人となり、後継者ともなったフランチェスコ・メルツィに出会った。

1513年と1516年にはローマにいた(このころはミラノ・フィレンツェ・ローマをたびたび移動していたようである)。当時、ローマではラファエロやミケランジェロが活動していた。ラファエロはレオナルドの絵を模写し、影響を受けているが、ミケランジェロとの接触はほとんどなかったようである。


フランソワ1世に抱かれて死ぬレオナルド1515年に即位したフランス王フランソワ1世は、同年にミラノを占領した。この時、レオナルドはボローニャで行なわれたフランソワ1世とローマ教皇レオ10世の和平交渉の締結役に任命され、(恐らくは、このとき初めて)フランソワ1世に出会った。以後、フランソワ1世の庇護を受け、1516年からは王の居城アンボワーズ城に隣接し、フランソワ1世が幼少期を過ごしたクルーの館(クロ・リュッセ)に招かれ、年金を受けて余生を過ごした。

レオナルドは、1519年5月2日にフランスのクロ・リュッセで亡くなった。右の絵画ではフランソワ1世に抱かれて死去するさまが描かれている。実際にはこのような場面はなかったが、王とレオナルドの親交の深さが分かる。

レオナルドの遺言状には、彼の葬式に60人の貧乏人に60本の松明を持たせ参列させること。そしてフランチェスコ・ダ・メルツォの裁量にて彼らに参列代として銭を与えること。またさらに、その松明を四つの教会に分けることを希望することなどが遺されていた。アンボワーズにある聖フロランタン教会に埋葬されたが、その後、墓が暴かれてしまい、遺骨の行方は分からない。

レオナルドは若い頃は「この世で最高の美男子」と呼ばれるほどの美貌の持ち主だったらしいが、生涯特定の女性と親しい関係になることはなく、独身だった。

レオナルドには多数の友人がいた。以下はその例である。

ミケランジェロ・ブオナローティ
ファッジョ・カルダーノ - ジェロラモ・カルダーノの父親の数学者、法学者
フランチェスコ・メディチ - 画家で教え子
ジェラルモ・メディチ - ミラノ軍の大佐
ジョバンニ・フランチェスコ・ラスティシ
チェーザレ・ボルジア - 軍人
ニッコロ・マキャヴェッリ - 作家
アンドレア・ダ・フェッラーラ
フランチェスコ・ナーニ
ルカ・パチョーリ - 数学者・複式簿記を著書『スンマ』で紹介した人物


芸術活動

レオナルドは絵の構想を練りながら膨大な数の素描やスケッチを書いたが、絵は制作されずに、スケッチの山ばかりが残されることも多かった。書き始めたものも、未完成のまま放置されたり、依頼主に渡されなかったものがある。レオナルドは、遅筆であると同時に、代表作とされるものでも未完の作品が多い画家である。『モナ・リザ』も手の部分が未完成ともいわれる。

1481年に『東方三博士の礼拝』(Adorazione dei Magi, ウフィッツィ美術館蔵、未完)の作画を請け負うが、膨大なスケッチを残して絵は未完成のまま知人に預け、ミラノへ行ってしまった。

ミラノでは、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)に依頼された7mもある巨大なスフォルツァ騎馬像の構想に、16年もの歳月を費やした。1493年に粘土の原型像が完成した。しかし、鋳造を前にして、シャルル8世のフランスとの戦争が迫ったため、1495年、用意した7トンの銅が大砲の製造に転用されてしまい、計画は中止された(この計画に基づいて、1999年に馬のみの像がニューヨークの個人によって作られ、ミラノに寄贈された)。一方、修道院の食堂に描いた『最後の晩餐』は、福音書を題材に劇的な場面をリアルに描き、レオナルドの名声を高めた。

フィレンツェに戻ったレオナルドは、市庁舎(ヴェッキオ宮殿)の会議室に『アンギアーリの戦い』を題材にした壁画を描く依頼を受けた。反対側の壁には、彼のライバルであったミケランジェロが絵を描くことになった。この仕事にも入念な準備がなされたが、技術的課題から壁画は失敗し、未完のままレオナルドはフィレンツェを去った。未完とはいえ、ルーベンスなどが模写しており、後の画家に与えた影響は大きかったが、世間的にはまったくの失敗であった。また、ミケランジェロも未完のままフィレンツェを離れてしまい、市庁舎の壁画は後にジョルジョ・ヴァザーリが異なる絵で仕上げた。

数少ないレオナルドの絵画のうち、『モナ・リザ』『聖アンナと聖母子』『洗礼者ヨハネ』の3枚は、イタリアではなくフランスのルーヴル美術館にある。これは、フランソワ1世にフランスへ招かれた際、レオナルドが持って行き、フランス国内で没したためである。この3枚に、レオナルドは死ぬまで筆を入れ続けたとも言われる。

レオナルドは、「自分の芸術を真に理解できるのは数学者だけである」という言葉を残している。

また、レオナルドは音楽の演奏及び作曲も行なった。リュートを演奏し、自作のリラを弾きながら歌った。ミラノを最初に訪れたのは、メディチ家の依頼でスフォルツァ家にリラを献上するためだったという説もある。新しい楽器のアイディアや演劇用にデザインした服装もスケッチに残されている。それを元に紙オルガンやヴィオラ・オルガニスタなどが再現され、演奏も行なわれている。

科学と技術

レオナルドは、最初に、内部を知り絵をより美しく真実に近づけようとする目的から、動物(馬とされる)の解剖を行った。後に人体の解剖に立ち会い、自分自身でも行い、極めて詳細に書きこんだ解剖図を多数作成している。人体及び解剖学に関する成果は、時に工学的に表現され、最古のロボットの設計との評価も受けている。
目の仕組みに付いても研究しており、眼球内で光が屈折し、網膜に届く様子を描いている。
当時、空気によると思われていた陰茎の勃起が、血液によるものであるという考察も、鏡文字(後述)で残している。
飛行することに興味を持った時期があり、鳥の飛行する様子について詳細な研究を行い、それを元にいくつかの飛行用装置を試作したと言われている。その中には、実際に動かすことはできなかったが、4人の人力で飛ぶヘリコプターの他、オーニソプターやハンググライダーに酷似したものも含まれている。落下に備えて、パラシュートのようなものも考案していた。1496年1月3日に、彼が発明した機械で飛ぼうとして失敗した記録が残っている。日本では、以前、レオナルドの描いたヘリコプターの図案が全日空の飛行機の垂直尾翼にデザインされていた。機体へは描かれなくなったが、現在でも社章となっている。
1502年、オスマン帝国のバヤズィト2世が行なった国家事業計画で、コンスタンティノポリスにかける240mの橋の設計を行なった。この橋は、ボスポラス海峡の、現在金角湾として知られる場所に架けられるはずだった。実際には橋は建設されなかったが、レオナルドの視点が再評価され、2001年、ノルウェーにその設計を元にした少し小さな橋が建設された。[1]
機械類として、歯車を用いた史上初めての機械式計算機、バネの動力で動く自動車などを構想していた。ヴァティカンにいた頃には、凹面鏡を用いて太陽光を集め、水を温める太陽熱温水器で、太陽光線を工学的に利用することを考えていた。
天文学の分野では、太陽と月は地球の周りを回っており、月の光は地球の海が太陽光線を反射したもの(天動説)だと考えていたが、後に地球は太陽の周りを回っている(地動説)と結論付けた。
ダ・ヴィンチの星などの立体図形も考案している。
水理学の観点からみると、アルノ川やロアール川、ソーヌ川といった河川の改修に技術者として携わるなどしており、非常に優れた河川技術者でもあった[1]。河川改修のほかにも、非常に正確な乱流のスケッチや、流れの連続式の明示、『水の運動と測定』で水の流れに関する科学的な考察など水理学的な業績を残しており、禰津家久はレオナルドを「水理学の父」であると評価している[1]。


レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿


レオナルドの多岐に渡る研究は、13,000ページに及ぶノートに、芸術的な図と共に記録されている。この膨大なノートは、19~20世紀になって、科学技術の分野での先駆的な研究として注目を集めるようになった。レオナルドはこれを出版する計画を抱いていたようである。

ほとんどは左手でペンを持ち、鏡文字で記述されている。彼が鏡文字を用いた理由は諸説ある。左利きであったために、乾く前のインクで手が汚れないようにするためという説、印刷しやすくするためという説、科学=異端という見方があったために、教会からの批判や弾圧を避けるためという説、読字障害であったという説などがある。

レオナルドの死後、ノートはメルツィに相続された。彼はそれをイタリアに持ち帰り、厳重に管理したとされるが、息子の時代に散逸してしまい、今は3分の1しか残っていないとされる。現在、彼のノートの殆どは国が所有しており、一部を富豪がコレクションしている。ノートを時系列で並べると、初期にはキリスト教の影響下にあった考え方が、観察と推測により徐々に事実へと近づく様子が見て取れる。

1490年頃のノートにはCanon of Proportions (プロポーションの法則)が書かれている。このなかの『ウィトルウィウス的人体図』は、当時発見された古代ローマの建築家のウィトルウィウスの「建築論」にある「人体は円と正方形に内接する」という記述を表現している。この図は、レオナルドの描いた中で最もよく引用されるものの一つであり、イタリアの1.00ユーロ硬貨にも用いられている。NTTドコモのクレジット事業、iDのサービスマークにも使用されている。

ノートには軍事関係のアイディアも多数描かれている。当時、権力者に売り込む最も良い手段が軍事技術であったことも関連している。機関銃、馬や人力によって動く装甲戦車、クラスター爆弾などである。潜水艦もある。しかし、彼は後に戦争は人類が行なう最も愚かなものと考えるようになった。

エピソード

本名はLeonardo di Ser Piero da Vinci(ヴィンチ家出身でセル・ピエロの〔息子の〕レオナルド) である。姓のDa Vinciは「ヴィンチ(村)出身」という意味である。
レオナルドは自身の作品に「Leonardos」または「Io, Leonardo」とサインした。専門家も彼の作品を「da Vincis」ではなく「Leonardos」と表記する。ちなみに、ヴィンチ(Vinci)はイ草(Vinchi)に由来し、レオナルドもそのモチーフを作中に取り入れている。
フィレンツェ時代の1476年、当時有名な男娼だった17歳のヤコポ・サルタレリ (Jacopo Saltarelli) にモデルを打診したことから、同性愛者として匿名で告発された。他の3人の若い男性とともに同性愛者として容疑がかけられたが、証拠不十分で放免されている。しかし以後、レオナルドと3人の男性はフィレンツェの “夜の士官”(ルネサンス期の風紀取締り役のようなもの)から監視を受けた[2]。当時は若者の間では同性愛は非常に進んだ考え方とされており、レオナルドがさほど特異な性的嗜好を持っていたとは言いにくい。しかし時代が下り、知名度が上がるに連れ、スキャンダル性を演出する逸話として時代背景を無視して盛んに語られるようになった。特に日本ではレオナルドは天才の代名詞として語られる一方で、その芸術については殆ど語られることが無いためこの傾向が顕著である。


参考文献

『よみがえる最後の晩餐』片桐頼継、アメリア アレナス共著、日本放送出版協会、2000年 ISBN 4-14-080494-7
『レオナルド・ダ・ヴィンチという神話』片桐頼継、角川選書、2003年 ISBN 4-04-703359-6
万能の天才という手放しのレオナルド礼賛に疑問を呈し、特に「発明」なるものの多くが実用にはほど遠く、また他人のアイディアも含まれると指摘している。しかし、レオナルドの功績は絵画の革新など別の面にもある。
『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実』創られた物語と西洋思想の系譜 竹下節子 中央公論新社 2006年5月 ISBN 4-12-003733-9
チャールズ・ニコル 越川倫明ほか訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 飛翔する精神の軌跡』白水社 2009年1月
『下村寅太郎著作集5. レオナルド研究』 みすず書房 1992。
兒島喜久雄 『レオナルド研究寄與』澤柳大五郎編、座右宝刊行会 1973。
レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿
レオナルド素描集成 レオナルド・ダ・ヴィンチおよびその周辺画家の素描、L.C.アラーノ解説
日本版は澤柳大五郎監修、三神弘彦訳、みすず書房.1984 大変高価。
レオナルド・ダ・ヴィンチ解剖図集 松井喜三編解説 みすず書房  1971、新版2001
ほかに岩波書店で刊行されている。

脚注

^ a b 禰津家久 『水理学・流体力学』 朝倉書店、1995年、pp.5-6。ISBN 4-254-26135-7。
^ レオナルドの伝記を書いたロバート・ペインは、レオナルドが男性も女性と同じように愛することができたと確信していたようである(娼婦との付き合いも彼のメモに残されている)。




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[2010/07/17 11:38]  クロサワ&村石太マン  URL  [ 編集 ]















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