† 映画 †

『Eyes Wide Shut』は、異端にすら値しない


アイズ・ワイド・シャット [DVD]アイズ・ワイド・シャット [DVD]
(2002/04/05)
トム・クルーズニコール・キッドマン

商品詳細を見る



ずっと以前から気になっていたキューブリックの作品を観た。
これは「サバト」を中心にして、構成が二つに分割できる。
前半はそれが何であるかを知りたいという方向で進み、後半はそこで知った秘密を暴きたいという方向である。
そして、そもそも儀式に参加したきっかけが、妻(ニコール・キッドマン)の一夜の浮気であるということだ。


tjkdtjkdtk.gif


私は前半のパーティーに登場する壮年の紳士が、オウィディウスの『愛の技法』を口にしている辺りを観ていて、雰囲気的にはプルーストの出入りしていた社交界に近いものなのだろうかと思っていた。
けれど、主人公の男(トム・クルーズ)は社会的に名誉ある医者という地位であるものの、サバトに出入りできるほどの富を持っていない。
この作品がテーマにしているのは、おそらく表面的な「セックス」というよりも、むしろ「金で欲望を買える現代社会」にあると感じる。

実際、主人公が財布から金を出すシーンでは、ほぼ「つりはいらないよ」という台詞が出てくる。
しかし、サバトに参加する資産家からは、「君はリムジンではなくタクシーで来た。君の着ている服はただのレンタルに過ぎない」と批判される。
批判、というよりも、これはむしろ「資産」によって得られる「欲望」の絶対数に絶対的な差があるということではないのか。


hdhdh.gif


主人公は医師という身分、マスクを利用していつでも、どこでも「安物の娼婦」なら買える立場にある。
けれど、実際には更に上に君臨する貴族たちがいる。
私がこの作品で感じたのは、繰り返すが「男と女は所詮、体の関係しか築けない」というようなものではない。
そうではなくて、これは「男が女を金によって搾取できる」ということをアイロニカルに描いている作品であるという他無い。

舞台衣装はどれも素晴らしい。
舞台、とりわけサバトにまで至る屋敷は。
今、私は作品の中心的な場として「サバト」をあげたが、これは貴族社会における「闇のミサ」の趣を呈している。
そして、そのミサに参加できる人間は、ほんの一握りの金に一生困らないようなブルジョワのみである。
サバトは会員制であり、参加にはおそらくメンバーの推薦以上に、莫大な資産と名誉、地位が必要である。
主人公は「場違い」な場所へ来たのであり、そのせいで一人の女が消されるのである。


kufykfy.gif


この作品は、哀しい作品でもある。
ここにはエロティックで官能的な裸体の女たちが登場するが、それは全て「男性視点」からの描かれ方しかしていない。
監督がどのような意向を持っていたとしても、私が観た限り、サバトはあくまで「ポルノ」であり、しかも「乱交」に属する。
仮面を被る、ということは心理的なレヴェルにおける「動物への生成変化」を可能にする。
猿のような、鶏のような、醜い動物の顔。
別人になりすませるマスク、仮面が持つ虚構化のシステムによって「個性」が剥奪され、いわば匿名的な「一夜の出会い系サイト」のような空間が現前する。
これによって人々は乱交に耽り、そういった過ちを愉悦しつつ、実社会では別の紳士的な仮面を身につけるのである。

徹底してポルノグラフィックだ。
そして、描写の仕方があまりにもミステリアスなきらいがあり、私がクルト・ルドルフの『グノーシス』などで想定していた異端の暗黒的なミサとは一線を画する。
そうなのだ、この映画には宗教的な意味合いが皆無なのである。
ここにはただ、ポルノがあるのみだ。
ここにはいかなる精神性も、そのサバトが持つ思想についての釈義もない。
ただたんに、貴族がスタイルの良い若い女を何十人も集めて、適当に「動物園」を創造しているのみである。


tdkdtkdt.gif



本当に怖ろしいサバトというのは、それが堅固な精神性に支えられていなければならない。
サバトというのは、本来明確な神学的異端の系列に属していなければならず、それゆえの「禍々しき神」を崇拝していなければならない。
だが、ここにはただ「赤い司祭」がいただけで、「神」が存在していない。
祈祷も、呪文も、何も無い。
つまり、ここには金さえあれば誰でも入れるようなもので、真の意味で「教団」とはいえない。
ただの「クラヴ」なのだ。
そして、それだけでこの映画は十分なのだ。

私はこの映画に不満足だった。
きっと、文学においても、映画においても、絵画においても、私が「サバト」に対して持っている独特な「恐怖」の感情を具現化できるほどのものは今後出現しないであろう。
「サバト」は、真の「暗黒のミサ」は、もしそこに初めて参加した女性がいようものなら、彼女が完璧な「合一」をそこで感じて、立ったままエクスタシーに達するほど魅惑的なものでなければならない。
そうではないサバトは、ただの「ごっこ」だ。
サバトは圧倒的な「狂度」を有する「カリスマ」によって主催され、そこには一個の核爆発に相当するほどの「慄き」が無ければならない。
旧約聖書に登場するバアル信仰において、「幼児を生きたまま全焼の供儀に出して、それを食べる」というようなプロセスは当たり前のように現前しなければならない。

そう、私がこの作品で最もエロティックだと感じたのは、父が死んだ夜に主人公に抱かれたくて堪らなくなり、何度も唇に唇を重ねてきた婦人である。
父の死、そして発情するということ。
およそ「宗教」というものには、「死」と「セックス」がウロボロスのように結合した状態で備わっていなくてはならないのだ。

関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next