† 映画 †

コンセプチュアル・アートとしての、『彼女について私が知っている二、三の事柄』について、私が言語化を試みた二、三の事柄





彼女について私が知っている二、三の事柄 HDニューマスター版 [DVD]彼女について私が知っている二、三の事柄 HDニューマスター版 [DVD]
(2008/02/01)
ロジェ・モンソレジュリエット・ベルト

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ゴダールの映画を観るのは、『気狂いピエロ』、『中国女』に続いて三作目である。
それも高校時代に観て以来なので、もう5,6年ぶりくらいでゴダールの「新作」を観たわけだ。


本作の感想を書く前に、少しだけ『中国女』の短いレビューを書いておきたい。
私はこの作品の中で、ゴダールが映画を撮影しているシーンを観た記憶がある。
メタフィクションのコード。
個人的に印象に残っているのは、マオイズムを突き進めていた女子学生が、電車の中で教授に諭されるシーンだ。
私はこのシーンだけが、ずっと記憶に残っていた。
それは私が「大学」という環境を知らない人間だからかもしれない。
つまり、「大学教授」と、個人的にどこかの喫茶店などで「対話」する、というような機会を私はこれまで一度も持ったことがない。
だから、きっとあの頃の私は、そういう描写にとても憧憬を抱いたのだろう。


『彼女について私が知っている二、三の事柄』、これがタイトルだ。
これだけで、既に私は何故かマルセル・デュシャンの「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」であるとか、「ローズ・セラヴィよ、なぜくしゃみをしない? 」などのような、タイトル自身が持つインパクトの効果を感じる。
内容についていえば、これまで私が観た数少ない映画の常識を全て破壊していた。
通行人がカメラ目線で話しかけてきたり、無意味で消費的な哲学的思弁がずっと続いたり、女性に対して不躾な質問をして怒りを買うインタビューを入れていたり、会話が突然断絶するような箇所も見受けられた気がする。
要するに、「娯楽映画」ではない。
これは、明らかに「解釈されることを待っている哲学書」だといえる。
否、哲学書というのではなく、「哲学映画」がより正確なはずだが、本作でゴダールは「映像」と「言葉」のどちらをも拒絶しているので、実際にはこの作品でテーマになっているものは、ベケットと同じく「語りえぬもの」であるといえるだろう。

主人公は昼間に夫の目を盗んで売春をしているが、これは全くの「空虚な設定」というほか無い。
これは飾りで、実際、主人公の女性は「思弁」を絶えず繰り返している。
どこへ行っても思索している。
思索したことを、そのまま発話する。
この世界では、登場人物が皆、考えたことを発話しているのだ。
彼らは日常生活の中で、「今日は~についてずっと考えていたの」における、この「~」の部分がないと死んでしまうような勢いだ。

ストーリーなど皆無である。
ただ、ありふれた人間の日常生活である。
それも、フランスの美しい田舎町なのではなく、どこか薄汚く、都市開発が途上のやりきれない街が舞台だ。

結果的に、主人公の女性は「私が世界であり、世界が私であるような感覚」に達する。
けれど、それはどこかアンニュイに語られるし、やはり一瞬感じたその想念を後から解釈して言語化しているだけだということも彼女は理解されている。
言語というフォルム、映画というフォルムでは、けして語りえないものをテーマにする時、舞台や人物は後退しても良い。
むしろ、アクション映画が持つ娯楽性などとは無縁な方が良い。

私はこれを観ている時、何故かサルトルの『嘔吐』を思い出した。
ロカンタンはやはりその日考えたことを言語化している、つまりフォルムにしている。
本作でゴダールは「彼女」を媒介にして、考えたことを発話させ、映像化している。
けれど、何故か「宙吊り」のままだ。
本当に何が語りたかったのかが判らない、ただ、何か日常生活の裏側には我々が気付いていないものが潜在していて、それを察知するためには「映画」なり「小説」なりで、積極的にアプローチしていかねばならないということだろう。
つまり、そうした「わけのわからない謎」、「別に謎でも何でもない、日常を規定できる大いなる幻影」のようなものを探究する、そうしたプロセスとして「映画」なり、「小説」があるとすれば、これは最もそうしたものを巧く暗示させていると思われる。

一度観ただけでは判らないことがある。
ただ、私はこれを二度も観るつもりがないし、本音をいえばアノーの『薔薇の名前』のように起承転結を持ってテーマも感じさせ「やすい」作品の方が好きなのだ。
否、私はそういうハリウッド式の「娯楽映画」に慣れているのだろう。
つまり、それを一つの「規範」として、こういう「欄外」に存在する革新的な芸術を「つまらなく」感じさせるように仕向けられてきたのだろう。
それは要するに、私が「ハリウッド映画」、もっといえば「アメリカの映画」を観ることで形成してしまった「こうあれば面白い」というプロットを乱すような形式に対する「暴力」の行使なのであろう。
いずれにしても、これは「映画」というよりも、国立国際美術館のアートシーンで流れて然るべき、いわば一つの「コンセプチュアル・アート」である。


はっきりいって、これがリブロスや蔦谷のような一般的なビデオショップに置かれていたとしても、レンタルするような人は一人もいないだろう。
これは、やはり「図書館」とか、「美術館」で、真に「語りえぬもの」を求める学徒たちによって何か独自のテーマを持ったものとして永遠に解釈されていくことが望ましいのだろう。
そういうわけで、私はゴダールに数年ぶりに再会して、映画には二つのトポスが存在することを知った。

・ 娯楽映画としての映画――つまり、ストーリーを持って、いかなるシリアスなテーマであっても、映画というシステムの内部に納まっている映画

・ 映画の中で、映画が持つ限界性や映画の定義、映画が映像と言葉で成立していることを解体していくなど、明らかに映画内部で映画自身が「覚醒」しているタイプの映画――これは、もうコンセプチュアル・アート(概念芸術)ではないか



だから、私がこれを観終わった後に、やはりデュシャンを持ってくるのは必然的だ。
デュシャンも芸術の中で芸術の定義の更新を欲したし、また芸術によって芸術を破壊しようとした。
ゴダールもそれと同じことを本作で試みているといえるのではないか。


いずれにしても、この映画には「フォルム」からの「逃走線」が絶えず引かれている。
規範――伝統的な普遍宗教、例えばカトリックを娯楽映画として考えれば、ゴダールは異端である。


この作品は、おそらく数年後に観ても、全く別の新しい解釈を生み得る。
また、私はこのような映像芸術を無料で提供している大阪府立図書館にも感謝したい。


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