† 映画 †

「いつも同じ道でも、違った景色が見える。それだけでいいんだ」―『スカイ・クロラ』を巡る静かなパンセ

スカイ・クロラ [DVD]スカイ・クロラ [DVD]
(2009/02/25)
菊地凛子加瀬 亮

商品詳細を見る





比較文学者の四方田犬彦氏も研究されている押井守監督のアニメーション映画作品を観た。
この作品にもしも何か大きな一つのテーマがあるとすれば、それは「機械人形」という言葉になるだろう。
私が注目したのは、人物と人物が対話する時に、「じっと見つめ合う」映像である。
これは、日常生活では実はありえない体制である。
確かに我々は神妙な眼差しで、重大な事柄を相談し合う時には互いに「じっと見つめ合う」。
けれど、普通の会話の時に、無表情に相手を「じっと見つめる」ことをしない。
それはいうなれば、一種の人間らしい規範なのだ。
この映画には人間的なコミュニケーションが持つ規範からの意図的な逸脱-侵犯が見える。


少年と少女が「見つめ合う」。
特に、この映画の少女の持つ雰囲気はマリオネット的だ。
「じっと見つめ合う」こと、それはいうなれば「人間」ではなく、「人形」や「機械」同士のコミュニケーションである。


この作品に登場する子供たちはけして「大人にならない」。
そのような存在として生を受けているという設定である。
また、ある種のカフカにおける『城』的な装置も作動している。
例えば、「戦争している相手がどのような存在なのか判らない」ということ、あるいは、「戦闘において絶対に勝てない敵」といった設定が与えられていること。
作品には「子供」たちが多く登場するが、それは外見的に子供なだけで、していることは「大人」である。
彼らは「子供」の姿をしているがゆえに、まるでその恥辱を忘れるようにセックスに対して経験を求め、あるいは仕事においては感情を排した効率的なクールさを過剰に披露する。


存在が持つ「アンバランス」が、人物の感情を極度に不安定に、あるいは神経過敏に、あるいは鈍重化させている。
作品の中で流れるメロディーは、どれも心地よいほどに美しく物悲しい旋律であるが、これはおそらくこうしたマリオネット的な存在者の魂の悲哀を表現している。



ma    in



少年たちの属している環境も閉鎖的である。
兵士である彼らは宿舎-学校で過ごす。
仕事-授業が終われば、仲間と酒場へ向かう。
宿舎と酒場までは、長い自動車道が一本、草原に敷かれているだけだ。
この均質さ、大地の圧倒的な空虚さが、作品の人物の雰囲気と調和していて実に心地よい。


高校時代を想起しよう。
我々は、毎日の単調なリズムの反復に発狂しかけていたはずである。
我々はやはりマリオネット化することで、学校生活に順応していなかったか。
これこそが、監督の最大のメッセージであると私は直観した。
つまり、この主人公たちの織り成す物語は、「学校へ通う」なり、「働く」なりしている、全ての現代人の「どことなく疲れた面持ち」に捧げられた哀歌なのである。
だから、私には彼らなりの恋愛形式がむしろ自然に見える。
それは、「好きな人ができちゃった」と笑顔を明るく振りまくようなタイプの物語なのではない。
もっと根源的に「生の持つ画一性」や、「退屈さ」、「やりきれなさ」を経験し、「麻痺」している男女に捧げられている「大人の絵本」なのである。
だから、主人公優一の「いつも同じ道でも、ちがった景色が見える。それだけでいいのではないか? 」という台詞は、我々にとって非常に大きなインパクトを持つはずである。
それは、「同じことの繰り返しでしかない空としての生」を受け入れ、そうした世界-自己を認識することで、微分的な差異の発見に「ささやかな悦び」を見出した人々の、いうなれば、悟りの境地である。


私はこの作品を、もしもまだ観ておられないのであるならば、『銀河鉄道の夜』でジョバンニよりもカムパネルラに惹かれる女性に推薦したい。
きっと、この作品を観て「癒し」を感じることのできるひとは、私の魂と通奏低音が類似しているであろうから。




関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next