† 文学 †

ガブリエル・ガルシア=マルケス『愛その他の悪霊』ーー信仰を越えた究極の純愛

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by Gustav Klimt

あらすじ

18世紀半ば、スペイン王国領だったコロンビアの、城壁に囲まれた町で。
狂犬に咬まれた侯爵の一人娘に、悪魔憑きの徴候が。
有為の青年神父が悪魔祓いの命を受ける。
激しく対峙した二人は、やがて激しく惹かれ合い……。
大作『コレラの時代の愛』と近作『わが悲しき娼婦たちの思い出』の架け橋とも言うべき、うるわしき哀歌。




『愛その他の悪霊について』を読み終わった。
書きたい言葉が巧くまとまるまで、感想メモのようなものを走り書きしていたが、ようやくここに書けるだろう。
私にとって、やはりこの本は極めて重大な物語だった。

この物語については、結局のところ、「炎のような涙」という言葉一つ残せば、もうそれ以上はそっとしておくべきであるような力を感じる。
まず、中篇というそれほど長くは無い作品で、これほどの傑作を創出する作家の力量に、ただ頭が下がる思いである。
これは、「愛」とは何であるかを記した魂の物語である。
そして、それは嵐のようだ。

タイトルにある「愛その他の悪霊について」という表現の意味について、今私はこう思う。
これは、「愛」と、「その他の悪霊」についての物語という意味ではないのだと。
これは、「愛」が、実は一種の「大いなる悪霊」のように、主体に憑依する―襲い掛かるものである、ということを示唆していると思われる。

物語は、少女が狂犬に咬まれてしまう描写から始まる。
舞台は閉鎖的な街である。
この少女が医師の力では治らないとのことで、父である侯爵が教会に助けを求める。
そこで登場するのが、デラウラという名の「女性に億劫な」、才気煥発な若き神学者である。
彼の髪の毛には一筋だけ白いラインが先天的に入っている。

こうして、少女シエルバ・マリアはデラウラから「悪魔祓い」を受ける。
この期間、少女はずっと閉鎖的な修道院に幽閉されている。
そして、この物語において最も重要な点だが、この修道院はまさに「キリスト教の負の象徴」という意味を持っている。
その権化が、慣習と規範に支配された冷酷極まる修道院長ミランダである。
この老婆は、何としてでもマリアを「悪魔」に仕立て上げて火刑台に送ろうと躍起になり、様々な策略を企てる。
デラウラもこの修道院に巣食う真の魔物の存在を知る。
物語は「悪魔に憑依された少女」と、「それを救う若き神学者」という構造的な役柄を持っているが、これは実は見方を変えれば二人とも「キリスト教社会が生み出した負の慣習の犠牲者」であるとも解釈できる。

壮絶な悪魔祓いが続いていく。
それは、肉体的、及び精神的に非常に重度の苦しみをもたらす辛い試練であった。
デラウラも血の涙を流す思いで、マリアを救済しようと企てる。
やがて、デラウラは自分が「神」に試されているということを直観する。
マリアを救わねばならない、彼はそうして、いつの間にかマリアのことしか考えられなくなっていく。

修道院の薄暗い監獄に幽閉されているマリアのもとへ、デラウラは夜になると忍び込んでまで会話するようになる。
「私を殺して」、「早く死なせて」、あるいは「私は悪魔である」などと、様々な言語で絶叫していたマリアだが、デラウラの笑顔を見て、じょじょにやさしい顔を取り戻していく。
デラウラは自分のことを語り、彼女の悪戯をやさしく受容し、眠る前には腕枕をした。
マリアはデラウラの胸の中で、静かに祝福されて眠る、という経験をする。
これが機となり、デラウラはマリアのもとへ日夜向かうようになる。
マリアもデラウラが来るのが待ち遠しくてたまらない。
汚物などで散らかった室内を、デラウラが窓から忍び込んでくる前までに掃除したりし始める。
やがて二人は体を重ねあい、閉鎖的な街の中の監獄的な修道院の中で、自分たちは「愛によって自由である」ということを証明するかのように、情熱的に、死ぬほど激しく愛し合う。

厳格な神学者の出世街道を進んでいたデラウラは、自分がいかに狭い世界を生きていたか悟る。
「神は信仰よりも愛を祝福する」という確信を抱くのである。
しかし、修道院長ミランダの策略は成就し、デラウラは少女をたぶらかす「悪魔の手先」として異端視されてしまう。
彼は役を退けられ、監獄へ入れられてしまうのだ。
帰りを待っていたマリアも、失意に暮れて遂に修道院の中で死んでしまう。

だが、死んだはずのマリアの髪の毛は、「あぶくのように伸び始める」。
このラストの驚愕すべき言葉は、冒頭に掲げられたアクィーノの聖トマスの文句、

髪の毛は、体の他の部分よりもずっと生き返りにくいもののようだ。
               
              「復活した肉体の完全性について」



という言葉が暗示しているように、マリアが復活したこと、すなわち彼女が実は「聖女」であったことを示唆する。
デラウラは、彼女との愛が、神には必ず祝福されるものであると確信していた。
これは、おそらくキリスト教信仰が生み出した「恋愛」の極地だと思われる。
要するに、デラウラは「けして愛してはならない女」を愛し、それゆえに破滅する。
この物語では、閉鎖的な社会の象徴として修道院が登場する。
あるいは、平凡な恋愛の象徴として、マリアの父である侯爵の恋愛が描かれる。

この作品は、おそらく平穏な凪のように続く恋愛ではなく、愛の「嵐」のような側面を謳歌した作品である。

私はこれを読んでいる時、夢中だった。
おそらく、恋愛小説でこれほど集中して読んだ物語は無い。
ラウリーの『火山の下』も少しずつ読んでいるが、「惹き込ませる力」でいえば、圧倒的に勝っている。
今後、「愛」を語る上で、そして「信仰と愛」を語る上で、これは『エロイーズとアベラール』と同じほど重要な意義を私にとって持つと思われる。





愛その他の悪霊について愛その他の悪霊について
(2007/08)
ガブリエル ガルシア=マルケス

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