† 小説集 「幻想系」 †

小説 『 催眠術師 』




 ダブリン郊外にある洒落た喫茶店でウェイトレスとして働いているヴァネッサは、今年で十七歳になる歌手志望の少女だった。カトリックが国民の八割以上を占めるこの国に生まれた女性らしく、ヴァネッサにも「幼きイエスの聖テレーズ」という名の麗しい洗礼名が与えられていた。彼女は品が良く、敬虔で歌も巧かったので周りにいる若い男たちからは隠れた人気があった。
 ある安息日の朝、その日もヴァネッサは生まれてから通い続けている地元のアダム・アンド・イヴ教会で祈りを捧げていた。来週はいよいよスタジオで歌のオーディションがあり、そのために彼女は学校とアルバイトが終わると睡眠時間も削って歌の練習をし続けていた。隣に住んでいるスティーブン夫妻は彼女の歌が好きで、安息日の夕暮れになると二人揃って歌声を聴きに来たりした。
 ミサが終わり、信徒たちが揃って教会を出て行く。熊のように大きな体の愛嬌ある老司祭が彼らを玄関で見守っていた。ヴァネッサも司祭にいつもの挨拶をして、来週に控えたオーディションのことを告げた。
 「ヴァネッサ。君なら必ずうまくいきます。貴女の日頃の努力がオーディションで結実するように、その日は私も念入りに祈りましょう」
 司祭のその力強い言葉に彼女は瞳が潤んだのだった。今、アメリカでは教会の若者離れが深刻化しているそうだけれど、自分はどんなことが起きても変わらずに信仰を守って生きていこう。ヴァネッサは教会で、司祭や他の家族たちとの交流を通してイエス様の御言葉を耳にする時、自分がカトリックであるということに深い自信を抱くのであった。
 ヴァネッサは帰りにショッピングモールへ寄って、風邪をひいている母親のために温かいホットレモンを買おうと思った。彼女は街路を歩き始めた。ふと、後方で何か人影が動いた気がした。午前中、この通りには人気が少ないはずである。振り向くと、木陰にスーツ姿の一人の青年が立っていた。金髪の巻き毛で、その容姿はラファエロが描いた二人の少年天使のうちの一人を、どこかリリシズムを漂わせた趣で成長させたようだった。ヴァネッサの心臓は一瞬、大きく高鳴ってしまった。
 「あの、先ほど僕も教会で祈っていたのですが、その時に貴女がこのロザリオを落とすのを見たのです」
 彼はそういうと、微笑みながらヴァネッサに近付き、彼女が幼年時代から肌身離さず携帯してきたシスター譲りのロザリオを手渡した。
 「ああっ、本当にありがとうございます。確かにこれは私のものです」
 「貴女の祈りを見ていると、幼い頃のあの清楚な笑顔を浮かべるテレーズ・ド・リジューを想い起こします」
 ヴァネッサはその身に余る褒め言葉に、頬を朱色に染め上げた。
 「あの、あなたは? 」
 「僕はレオポルド・ディーダラス。トリニティ・カレッジで心理学を学んでいます」
 「私はヴァネッサ・アトキンスです。えっと、地元のハイスクールの学生です」
 「もしかして、ダンスや歌をレッスンされてるんじゃないでしょうか? 」
 その言葉にヴァネッサは驚愕して、思わず目を見開いた。
 「ええ、そうです! でもどうして判ったんですか? 」
 「いいえ、僕の直観ですよ。実は僕も先ほど、あの教会でミサに与ったのですが、実に素晴らしい説教でした。あの司祭様の御名前、もしかして御存知ではありませんか? 」
 ヴァネッサはレオポルドの問いに笑顔で口を開いた。
 「ええ、もちろんです。彼はオリバー・ハミルトン司祭です。ダブリンではかなり有名な、この教区の主席司祭さまですよ」
 「やっぱり、とても朗らかで、かつ魅力的な説教でした」
 「ええ、私もそう感じました」
 「特にあの恋愛について語られた時、黙示録の大淫婦イザベラの箇所を引用されるなどとは正直思ってもみませんでした」
 ヴァネッサはクスッと微笑んだ。敬虔とはいえ、彼女も年頃の乙女である。素敵な男性との刺激的な恋に憧れることはしばしばであった。
 「そうだ、僕はまだランチを取っていないんだけれど、この界隈でどこかいい喫茶店はありませんか? 」
 そうきかれて、ヴァネッサは咄嗟に自分がアルバイトをしている喫茶店の店名をいいかけたが、言葉を奥にそっと閉まった。そして、自分が今から行くショッピングセンターの中にある手頃なレストランの名前を教えた。
 「ミランダっていうけっこうクラスメイトから人気のレストランがありますよ。良かったらそこまで案内しましょうか? ちょうど私もそっちの方向に用があって」
 「ああ、よろしいんですか? 嬉しいな。実は昨日の昼から何も食べてなくって」
 こうして、ヴァネッサはレオポルドというこの見知らぬ青年をショッピングセンターまで案内することになった。途中、レオポルドは立ち止まる機会があると、優しく微笑みながら天使のようにヴァネッサをじっと見つめていた。まるで、「今晩、僕は君と過ごす」と告げているかのような誘惑的な眼差しで。
 喫茶ミランダの前まで来たヴァネッサにレオポルドが口を開いた。
 「ねえ、どうせなら貴女もいっしょに食べませんか? どんな歌を歌っているのかとか、教えてくださればとても嬉しいんですが」
 「でも、」
 ヴァネッサはそういって彼を見た。その瞳を見ていると、彼女の魂は掻き乱されるように不安定になった。まるで吸い込んで掴まえたままもう二度と離さないような神秘的な力が宿っていた。
 「僕は」
 レオポルドが低い声で、ヴァネッサの唇の前に人差し指を重ねた。
 「君をずっと探していた」
 レオポルドは人差し指をヴァネッサの唇に乗せながら、独特な低いハスキーボイスでそう語りかけた。すると、彼女は急に魂がとろけたように甘い気持ちになって、目の前にいるこの謎めいた貴公子に身を今すぐにでも委ねたいという衝動に駆られたのだった。
 「僕はもっと君を深く知りたいんだ」
 とろんとした目でぼんやりしているヴァネッサにレオポルドが、女心を耽溺させてしまうようなセクシーな声色で語りかけていく。
 「君はでも、僕に何も教えてはくれないんだね? 」
 直後、ヴァネッサは恋愛に奔放であるべきではないカトリックの教えに背反するような言葉を口にしかけている自分に気付いた。いってはならない。それだけは絶対にいってはならないのだ。
 「僕は君の歌声を聞きたいけれど、君はそれ以上のことを教えたいはずだ。違うかい? 」
 レオポルドはヴァネッサの瞳を見つめながら、徐々に魔術的な力を宿して語気を強めていく。
 「君が歌を愛したのは、他でもないこの僕に聴かせるためだ。僕は君の歌を待っていた。ハミルトン司祭よりも、はるか前から。君と僕が、まだ小さくて可愛い少年少女だった時代から」
 レオポルドは尋常ではないほどの速度で袖口からライターを取り出すと、まるで人差し指に火が灯ったように見せかけた。ヴァネッサの視線は、彼の目から彼の指の上で美しく揺らめいている、儚く小さな焔へと滑っていく。
 「君の存在が必要だ。そして、君も僕の存在を欲している」
 直後、彼は火を一瞬にして消すと、ヴァネッサの左頬を軽く掌で打った。すると、ヴァネッサが震えるような小声で、顔を真っ赤にしながら口を開いた。
 「私もあなたが欲しいです」。
 ヴァネッサはこうして、危険な催眠術師の手に堕ちたのだった。一度催眠にかかった彼女の魂を支配しているのは、最早彼だった。彼はまるでヴァネッサの未来を予知したかのように切ない表情をすると、ゆっくり彼女に近付いて、優しく抱き締めた。彼は彼女の頭に、そっと接吻したのだった。かつてイエスが盲いた少女にそうしたような仕草で。
 出会って二十分も経過していないほどの短期間で、一人の女性を虜にする催眠術は存在しない。それも、ヴァネッサのように元から確固とした信仰体系を持っている女性を、わずかなジェスチャーと会話術を駆使して罠にはめるのは一流の催眠術師の力量をもってしても失敗する場合がほとんどである。
 レオポルドには催眠術を越えた、何らかの超自然的な力が働いていた。今、ヴァネッサの魂に沈殿してどろどろと渦巻いているのは、今すぐにでも彼に抱き締められたい、彼と唇を重ね合いたい、そんな肉体的次元に属する快楽のみであった。それは一つの巨躯な火炎となって、ヴァネッサの若い体の内部で燃えていた。レオポルドはそれを知りながら、あえて生殺しにするかのように、手を繋いだままショッピングセンターの出口へ陽気に歩を進めていく。彼の目的はヴァネッサの処女を奪うことではない。彼の真の目的は、彼女をある儀式の「贄」にすることであった。

 気が付いた時、ヴァネッサはどこかの広い寝室で寝かされていた。服装は白いドレスに着せ替えられている。ベッドの傍にはダイヤモンドが銀河のように散りばめられた高級ヒールが丁寧に置かれていた。まるで、これを履いて寝室の外へおいで、と誘っているかのように。
 ヴァネッサの意識は朦朧としていた。何度も何度も若い男とキスし合ったような蜃気楼に包まれた夢を見ていたのは確かだった。その時の感覚の悦びは今でも体に残存していた。だが、ミサを終えてショッピングモールへ向かってから自分が具体的に何をしていたのか、記憶はひどく擦れていた。寝室に窓は一つも存在しなかったが、体内時計から判断して今はおそらく深夜であった。
 ヴァネッサは不意に、怖ろしい恐怖感に胸を襲撃された。自分がここに至るまでの明晰な因果関係を知らないでいること、これほど感覚を不安に陥れる状況が存在するであろうか。
 やがて寝室のドアがノックされた。そして、扉が開くと、奥から見覚えのある若い青年の姿が現れた。それは、中世の修道士のような黒い装束に身を包んだレオポルド・ディーダラスであった。
 「さあ、これから降霊会が始まる。君はその儀式で、中心的な役割を果たすことになるんだ」
 レオポルドは奇妙な逆十字の首飾りを輝かせながらそういった。装束以外には何も着けていないのか、胸の筋肉が覗いている。気のせいか、彼の首筋は汗で光っていた。
 ヴァネッサはレオポルドの姿を見て直観した。そうだ、私は彼の指先に灯った不思議な火を見た。あの火の奥に彼の綺麗な瞳が見えて、彼の瞳には幻のような火が瞬いて、それが一つになって、私の意識はどこか知らない夢幻へと運ばれてしまった。しかし今、ヴァネッサには明瞭な理性が働いていた。彼女にかけられた催眠術は、幸いにも解けてしまっていたのである。それはレオポルドにとって致命的なミスであったが、ヴァネッサにとっては彼の野蛮な企みを阻止する絶好の機会でもあった。
 「さあ、ヴァネッサ。僕の後についてくるんだ」
 レオポルドが得体の知れない自信に裏付けられた笑顔を浮かべて、手を伸ばしてきた。
 「はい、あなたのいわれるままに」
 ヴァネッサはそう演じた。決定的な証拠を掴めば、それを携帯電話で撮影して警察に突き出せる。彼女はレオポルドを逆に問い詰めることのできるチャンスを待っていたのだった。
 二人は長い廊下をゆっくり進んだ。廊下の左右には等間隔に蝋燭が灯っていて、床には赤いカーペットが敷かれている。扉はずっと奥に存在した。だが、廊下の奥へ進めば進むほど、ヴァネッサは得体の知れない禍々しい不安に支配され始めた。彼女の存在全体が、「この先へ進んだら確実に死ぬ」と警告しているのは間違いなかった。
 ヴァネッサは恐怖で足が震え始めていた。というのは、扉の奥から数知れない人間たちの小さな談笑の声が響いてきたからである。一体、この扉の奥で何が開かれるというのだろうか。レオポルドは、私のことを「贄」と呼び、儀式において「中心的な役割を果たす」と不気味に告げていた。仮に儀式を執行するのがこの若い男一人であるならば、ヴァネッサ一人でも何とか逃げ出せるだけの自信はあった。しかし、今扉の奥から聞こえている人間の声の数はゆうに二十人以上を越えていると思われる。一度入れば、最早逃げられないのだ。
 ヴァネッサは即断した。「逃げるのだ! 今すぐ! 」。内なるイエス様の声が、ヴァネッサにそう告知した。彼女は突然、廊下を引き返して走り始めた。全速力で走らねば追いつかれる。彼女はしかし、十歩ほど疾駆した地点で、自分がヒールを履いていたことを悔やまざるをえなかった。それは逃走を最大限に困難にするための罠だったのだ。ヴァネッサはたちまち廊下にうつ伏せに転んでしまい、扉を開いて駆けつけた数人の紳士たちに捕縛されてしまった。
 ヴァネッサは無我夢中で暴れて、男たちの手から逃れようとしたが既に事態を知った数十人の会衆たちが彼女を取り囲み始めていた。その中には、胸元に黒い薔薇の飾られた高級ドレスを纏った貴婦人や、立派に口髭を蓄えたどこかの財閥の長老といった面相の老人たちも存在していた。彼らはヴァネッサが捕縛され、時には頭部を殴られたり腕の関節を異常なほど曲げられたりしているのを、まるで兎の屠殺場のありふれた光景であるかのように笑いながら眺めていた。
 やがてヴァネッサは扉の奥に広がる、円形の異様な空間に運び込まれた。そこには、既に怖ろしい儀式の開始を物語るような光景が用意されていた。広間の中心には三本の逆十字架が浮遊しており、どれもが天井に鉄の鎖で連結されている。ちょうど、人が数人でその逆十字架を押せば、振り子のように揺れ動く仕組みであった。身の毛もよだつことに、今その逆十字架にはヴァネッサ以外に二人の女性が素っ裸のまま縛り付けられており、泣き喚きながら「助けてください! 」と口々に叫ぶのであった。
 逆十字架であるため、イエスが磔刑に処された時の体勢とちょうど正反対、すなわち逆さ吊りのような状態で縛られていることになる。その哀れな姿を、広間の外周では着飾った紳士淑女が葡萄酒片手に楽しげに見物している。彼らの舌を楽しませている鮮血のような葡萄酒が、彼らを酷く上機嫌にさせているらしかった。
 間違いないのは、彼女たち二人がまだ生きているということだった。服を全て剥ぎ取られ、逆さ吊りの状態のまま振り子運動に耐えているが、まだ殺されてはいないのである。ヴァネッサは再び手足を精一杯動かし、脱出を試みたが、押さえ付けている男たちの強靭な腕力には到底適わなかった。更に不運なことに最早扉は固く施錠され、この場から離れること自体が不可能な状況であった。
 やがてヴァネッサよりもはるかに年増の貴婦人たちが彼女に群がり始めた。そして、笑顔でヴァネッサの着ていた白いドレスを剥ぎ取ると、彼女をすっかり丸裸にしてしまった。続いて、紳士たちが彼女を取り押さえた状態で、まるで物を運ぶように担ぐと、残された中央の逆十字架まで運んだ。ヴァネッサはこうして、他の贄らと同様、逆さ吊りにされたまま会衆たちの目に曝されることになったのである。
 「こんなことをして、社会があなたたちを赦すわけがありません」
 ヴァネッサは涙を浮かべながら、初めてそうレオポルドを見上げながら叫んだ。すると、レオポルドは吊るされたヴァネッサの秘められた官能の果実に優しく接吻し、しゃがみ込んで髪の毛を撫でてやった。
 「安心するんだ。君はこれから、物として生まれ変わることになる。僕らがするのは、君たち三人の娘の霊を取り出して、それを人形に憑依させることだ。霊を取り出し、再び容器を与える。これが降霊術の核心だ。君は残念ながら、儀式の過程で全焼の供犠にされてしまうが、哀しむことはない。なにせ、再び目覚める頃には、君は魅力的な新しいプラスティック人形の身体を手にしているからだ」
 彼はそう笑顔でヴァネッサを残酷に慰めるのだった。
 「悪魔」
 ヴァネッサは悲痛な眼差しでレオポルドにそう呼んだ。
 やがて一人の紳士が、燃え盛る松明を持って現れた。会衆一同が、一斉に沈黙に臥した。別の男は、宙吊りの女たち一人ひとりに、順番で灯油を塗っていく。ヴァネッサにも足の先から臀部、生殖器、腹部、乳房、首筋、そして顔面まで綺麗に灯油を染み込ませた太いブラシが滑っていった。
 松明を手にしていた男がヴァネッサの隣にいた女性に接近していく。女は灯油と涙と鼻水で塗れて、もう顔が見るに耐えないほどぐしゃぐしゃになっている。レオポルドが会衆より一歩出た安全なところで合掌し、瞼を閉じて口を開いた。
 「神よ、この女、シャーロット・ジョーンズに与えた身体を更新するために、彼女の息を一時的に奪うことを赦し給え」
 レオポルドがそういい終わると、三人の紳士たちがヴァネッサの前方に立ち、彼女の振り子を揺らし始めた。こうして、三人の贄が縛り付けられた逆十字架が広間の中央で怖ろしく右へ、左へ揺れ始めた頃、松明を持った男が最初の女であるシャーロットの足首に火を移した。
 直後、会衆たちが歓喜の声をあげた。最初の女の肉体にあっという間に焔が駆け巡っていく。女は全身を火で包まれながら逆さ吊りで振り子運動をし続けている。まるで何十人、何百人、何千人もの悪漢たちに何万回と陵辱される時のような凄まじい悲鳴が広間に響き渡った。それは聴き方によれば、セックスしている時の、女がオルガスムに達するあの恍惚とした天使のような断末魔に似ていた。
 一人目の白い皮膚が、見る見る焼け爛れておぞましい化け物のような姿に変わり始めた頃、レオポルドは再び瞼を閉じながら口を開いた。
 「神よ、この女の霊魂をこの人形に憑依させよ」
 彼はそういって、両手で着飾った笑顔の仏蘭西人形を燃えている女から少し離れた前方に設置した。女はしばらく、黒煙を発しながらも「熱イ」とか、「オ母サン」などと絶叫していたが、やがて顔面にまで火が及んで下唇の皮下組織が黒焦げにされると、完全に沈黙してしまった。
 人形は動き出さなかったが、儀式は平然と遂行されていく。ヴァネッサの隣にいたミランダ・ヨークという名の女性にも火が投じられると、彼女は振り子運動をしながら泣き叫び始めたのだった。黒煙を発しながら今、二本の逆十字架が悪魔の心音を告げるかのように不気味なシーソーをしている。見物している中年の貴婦人は、さぞ楽しげにこの儀式の真骨頂を満喫しているのだった。「やっぱり生きたまま処女を丸焼きにすると、素晴らしい気付け薬になるわね」。貴婦人たちは冷酷な微笑を浮かべて食い入るように若い女の不幸な死に様を観察し続けていた。中には、滝のように脂汗を流して悲痛に苦しんでいる少女の顔を見ながらでないと快楽を満たせないのか、儀式の中途で紳士と激しく抱擁し始める婦人たちも存在した。
 こうして、二人目の贄の魂を取り出すことにも成功すると、レオポルドは焼死した二番目の女の前にも似通った別の人形を設置した。
 「さあ、ヴァネッサ。最後はいよいよ君の番だ。メインイベントである君には、他の二人よりも特別なショーが用意されているから、覚悟するんだよ」
 ヴァネッサは青褪めた。あまりの恐怖に尿を噴出してしまい、滴が涙や灯油と混じって自分の口にまで垂れ流れてくる。だが、もうどうすることもできなかった。広間にいる紳士淑女たちが、待ってましたとでもいわんばかりにヴァネッサのまだ瑞々しく美しい白い皮膚を凝視する。
 死期を完璧に悟ったヴァネッサの顔に、不意に幼きイエスの聖テレーズのような優しい受苦の微笑みが浮かんだ。すると、突然広間は謎の閃光に包まれ、逆十字架の頑丈な拘束具も解き放たれたのだった。
 「よし、OKだ! カット! 」
 天井に近い場所で、自由に高さを変えられる長椅子に腰掛けていた撮影監督がそう満足げに声を張り上げた。すると、突然ヴァネッサの周りで盛大な拍手喝采が巻き起こった。先ほど焼殺されたはずの黒焦げの女性たちは、まるで嘘のようにその特殊メイクを拭き取りながら笑顔で近付いてくる。
 「ヴァネッサ! あんたってば、天才女優になれるよ! 私たちも最終オーディションまで勝ち残ったけど、あんたほど常人離れして感情移入できる名演技はできなかったわ! 」
 ヴァネッサは茫然自失して、口々に自分を称賛する二人の女性を見つめている。やがて他の撮影スタッフたちもヴァネッサに愛情溢れる眼差しで近付いてきた。ベレー帽を被った赤い口髭の監督がぼんやりしたままの彼女を強く抱き締める。
 「完璧だったよ! ヴァネッサ! 君はうちのスタジオのトップ女優になれる器だ。特にラストのあの聖女みたいな眼差し。あんな素晴らしい表情を見たことは私の長い監督経験でもなかったほどだ! 本当に、君は素晴らしい女優になるだろう! 」
 「女優? でも、わたしは歌手のオーディションを」
 その第一声に、スタジオにいる全てのスタッフや共演者たちが哄笑した。監督がヴァネッサの額に手を乗せ、熱があるかどうか確認する仕草をしている。
 「おいおい、大丈夫だろうな。まさかまだ演技に入ってる状態なんじゃないんだろう? 君は歌手志望の学生という役柄を演じていたんだ。そして、ここは君のような女優志望者のために設けられたオーディションスタジオだ。君は完全に役に入り込んで、一時的に現実と仮面の違いを認識できないでいたのだろう。だがなに、もう大丈夫だ。すっかり目は覚めただろう? 」
 ヴァネッサはしかし、監督の発言を理性的に受け取ることができなかった。自分は本当に催眠術にかかり、殺されかけたのだ。彼女は底知れない怒りで震え始めていた。不意に、誰かが裸体のままの彼女に優しく毛布を被せた。それは、あの極悪非道な悪魔、人殺しのレオポルド・ディーダラスであった。ヴァネッサは彼を見るや、狂癲的な悲鳴をあげた。その声に、スタジオ全体が静まり返った。
 「この、この人でなし! あなたのせいで、私が一体どれほど怖い目にあったか! あなたは本当に私たちを焼き殺そうとしたわ! この、この悪魔! 絶対にあなただけは赦さない! どんなに謝っても、どんなに土下座して謝罪しても、私はあなたに復讐するために今後あなたから一切の幸せを奪い取ってやる! 」
 レオポルド役の美貌の青年が、ヴァネッサ役の彼女に何度誤解を解こうと尽くしても、最早彼女は完全にそちらの世界の恐怖の住人へと変貌してしまっていた。残されたのは、複雑な笑みを浮かべている監督と、彼に蹴り飛ばされてスタジオの片隅に転がっている、三体の人形であった。それは文字通り、人の形をしているだけの、魂の抜けたたんなる物に過ぎなかった。
 
 


関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next