† キリスト教神学 †

イエスの「奇蹟」を、現に知覚するためには、聖書を「読む」上で、自己をその場に居合わせた一人の観察者として、認識することが必要になる

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「あの二本のオレンジ色の塔を越えた辺りに、私が暮らしている家が、ある」



今日、私は夜に堤防をサイクリングしていたが、その時感じていたのは「啓示がこの空間の、どのあたりに、現にあるか―転がっているのか」という些細な問題だった。
「啓示」というのは、それを得ることによって主体が超越化するものである。
そのようなものはサイクリングしている限り、見つけることができなかった。

ただし、私は「世界」を、観たのであって、それをアイフォンのカメラで撮影した。
「世界」はのっぺりとそこにあった。
私の目を信用してくれるならば、「世界」は確かにそこにあった。

私はその実在を疑っているのではないのだが、このありふれた現実世界とは違う、別の世界へと繋がる「門」を探していたのである。
しかし、その門すらなかった。
早急に書いてしまえば、ただ「現実世界のみが均質に広がっていた」、だけである。

私は人間も見た。
私は自転車をこぐ、という行為を絶えずしていたが、その合間にも様々な行為をしている人間の群れを見た。
彼らの大半は、歩く、ということをしていた。
人間たちは群れを成していたが、私だけが彼らから孤立しており、まるで見えない膜がはられたかのようであった。

根源的に、人間の考えることになど大きな差異はないので、私と同じ観念に襲われる人間は、明日にも必ず生まれるだろう。
ただし、我々に共通しているのは、ただ、「啓示がない」、という感覚なのである。


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「等間隔に並ぶ光について、以前私は、レオン・スピリアールトの堤防をテーマにした絵画で、見かけたことがあった」



「啓示」はどこにあるのだろうか。
それは、内面にあるのである。
啓示を外部に求める限り、我々は常に外界の対象に何らかの意味付与を行うだろうが、実際のところ、キリスト教であれ仏教であれ、啓示は、内面において生起するのである。

私は今、「神が黙り込んでいる」のを感じているが、これは私という主体の心象の影響を受けている。
しかし、神は私などという一個人の感情を超越しておられるので、「黙り込む」ことなどない。
ただ、私には神が、見えない、感じられない、触れられない、聴けない、などという哀しみがあるのである。
それはつまり、私と神との、「遠さ」である。

私と神は「遠い」。
私という主体をタブローに起こせば、点のようになるが、神はこの点から無限後退し続けている、別の小さな点なのである。
すれちがうことも、交わることも、ない。
神はそのようにして、今、遠ざかっているのである。
それはつまり、神が、私と「遠さ」において、有られる―存在する、ということでもある。
神は私には感じられないもの、場所、時間、において、有る、ような気がする、ということなのである。

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「トンネルの中に入ると、私は不思議なことに安心するが、それは昔、私が洞窟の中で動物を喰らっていた時代の、記憶によるのだろう」



ムージルは『やさしいヴェロニカの誘惑』の中で、「動物たちが滑り台を急速に滑っていく」という奇妙な言葉を残している。
この感覚は、神学と関連している。
神は、私にとって、私ではない存在、例えば動物のように強度の他者化を受けた存在である、と同時に、滑り台を素早く滑っている―私からはすぐに見えなくなるような、そんな存在である。
神は、私とは違う存在であり、つまり、人間ではないのであるが、私が属す場所、時間、からも、滑っていく―滑走していく、ことによって、私にはけして、姿を見せないのである。
このようなわけで、神は、「不可視」の、「非―現出的様態」として、私の心象の内部に、「現に、有る―存在する」。

神を感じられない、であるとか、神のことなど別にどうでもいい、とか、神など終わっている、とか、神は死んでいる、とか、神など信じるに値しない虚構である、とか、我々はいうことができるわけである。
そして、神を信じないことには、有力な根拠が無数にある。
しかし、私が神を信じるのは、そうした神の存在が論理的には証明できない、ということ、以前に、私自身が、なんとかして、神を信じていたい、たぐりよせていたい、愛されていたい、祝福されていたいと、そのように希求しているから、なのである。

だから、私は、他のどの科学者が、私の信仰を嘲笑しようとも、私の内面的な「渇き」が、常に神に向くのである。
ヨハネによる福音書の、4章、14節に書かれていることは、井戸の水が有限であるのに対して、イエスの与える福音は、永遠である、ということである。
つまり、井戸の水は、すぐに再び、我々に「渇き」を与え、それ故にすぐに干上がるが、聖書は「永遠の命にほとばしり出る水の泉」だと、いうことである。

これは、信仰においていえることであり、いわば、私が神からの啓示がどこにもない、ありえない、虚しい、と嘆く時に感じる「渇き」は、私が聖書の教えに立ち返るところの、発火源になっているのである。
私は、神から「遠い」のであるが、その「遠さ」において、神は遠方から、私に何かメッセージを放っている。
そのメッセージが、何であるか、と選択するのは各主体の自由であるが、私は、カトリックである限り、常に聖書の教えから、「潤い」を探すべき、なのである。
そうして出会ったこの言葉は、すなわちヨハネの4章14節の、「ヤコブの井戸」の奇蹟は、まさに私が読むことによって――読む、とは、つまり本の中の世界に、侵入すること――遭遇した、奇蹟に他ならない。
このように、「神からの遠ざかり」がきっかけとなり、自分が神に「渇く」ことを認識し、聖書においてそれを癒す「潤い」の奇蹟を見出す、一連の過程は、おそらく、どの信徒も毎日のようにそれぞれの形式で行っているのであろうが、信仰生活を考える上で、この上なく、重要である。

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「街の壁のそこかしこで、見られるこのようなペイントには、いかなる意味も存在していないが、そうであるが故に、これが超越的存在の名を刻んだ聖なる文字である、と意味付与することは、常に可能である」




大切なのは、現実世界において、「奇蹟がない」と、悲嘆する―絶望する、ことではない。
そういう時代は、もう終わった。
我々の時代は、「聖書」の中から、その日、その日において、重要な指針となる「奇蹟」を読む、行為である。
読む、ということによって、我々は、まさに聖書の中に、侵入するのである。
そうして、虚構的に一観察者となった我々は、そこで、まぎれもなく密かに、厳かに行われている、イエスの神秘的な「奇蹟」を、観察するのである。
「奇蹟」、あるいは、それに伴う「啓示」とは、結論的にいえば、「聖書の世界の登場人物」となって、この現実世界を一度( )に入れてしまうことで、イエスの力を観察する、ということから始まる。

聖書を、ただ読書する、物語として読む、のではなくて、「霊的に読む」行為とは、まさに、私という主体を、あの時代、あの場所へと、移行させることに拠るのである。
このように、「霊的に読む」、すなわち霊的読書は、我々に「奇蹟」を見せるのである。
これは、バークリの名高い定説である、「存在するとは、知覚されることである」という帰結によっても保証できるだろう。
霊的読書によって、「奇蹟」をイメージする―知覚する、ことのできる主体は、まさにその場に居合わせたような感覚―幻視体験を有することになるのであって、これがいわば、我々を、超越的な神との慎ましい「和合」に近づけていくのである。

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~ Comment ~

鈴村氏にお尋ねしたいことがあります。

聖書の暗号 という書籍と、

こちらのサイトをご存知でしょうか。
http://www.246.ne.jp/~y-iwa/yobichishiki3.htm

↑あまりにも衝撃的なサイトでしたので、鈴村さんのご意見を聞きたいと思いまして。

上記のサイトは聖書研究家の伊達巌さんのサイトで、正式なトップページはこちらです

http://www.246.ne.jp/~y-iwa/

聖書というのは、暗号にこそ意味があるのでしょうか。

お答え頂けましたら幸いです。
[2010/12/23 00:32]  K  URL  [ 編集 ]

Kさまへ

御来訪に感謝します。
また、なかなか興味深いサイトのご紹介にも御礼申し上げます。

ざっとサイトを閲覧してみたのですが、筆者がいうその暗号解読方法が、実際に学界(神学界)でどのように認知されているか、といったことが重要だと思います。
確かに聖書のアルファベットには規則性があります。
例えば、これは今でも謎ですが、聖書の最初の文字はアルファではなく、ベータです。
起源が既に第二文字になっている、とのことから創世前に何かがあったのでは? などという考えも生まれました。

ですが、「聖書の暗号」は、ノストラダムスの予言やマヤ歴と同じで、未来予測の手段として「意味付与」されているに過ぎません。
要するに、既に起きた事件と、意図的に暗号部分を符号させる、一致させる、ということです。
これは、実はキリスト教神秘主義の系譜を紐解けば、似ている例にいきあたります。
例えば、フィオーレのヨアキム。
彼は12世紀に活躍した修道院長ですが、「3」は聖三位一体、「12」は族長数であると同時に使徒数、「1」は一なる全能の神、などと聖書から把握できた数字に「意味付与」を行い、結果的にある年代に世界が終わると予言しました。
これは外れましたが、終末論を考える上でのサンプルにはなります。
私が主張したいのは、「予言」が何らかの理論に基く時、とりわけ過去の事例が暗号によって既に示唆されていた、と言われるとき、そこに強制的な「意味付与」が働いているということですね。
これは人為的なもので、全く神的なものではありません。

確かに面白い話ではあると思いますが、私は「予言」についてはギルバート・ライルの哲学書でその駁論方法を知ったので、全て捨象しています。
[2010/12/23 01:28]  鈴村智一郎  URL  [ 編集 ]















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