† キリスト教神学 †

聖書の、parergonality(余白性)について、グノーシス文献『この世の起源について』から、考える

聖書は、旧新約を含め、この世界に起きる、一切の現象の、原型―アーキタイプ、として、ある。
聖書の原文は、これまで数知れない言語に、翻訳されてきたわけであるが、しかし、未だ、全く、誰も、翻訳していない箇所が、一箇所だけ、存在するのである。
それを知る、手掛かりとなる文献が、ナグ・ハマディ文書『この世の起源について』に、ある。
この本は、典型的な、グノーシス文献の、一冊として名高いのであるが、ここで、神の創世日数である6日間、という数字のことを、ギリシア語で、ヘクサエメロン、という。
この場合、神の休息も含めて、ちょうど、世界創造は、6+1=7日間で、完了する。

しかし、先の文書では、神の5日目は、「空白」であり、休息以外に神は、7日間、働いているのである。
すなわち、ここで、神は世界創造において、8日間もの日数を、費やしているわけ、である。
これを、オクサエメロン、という。

この存在しない、神の空白の一日は、いうなれば、創世における、parergon(余白、欄外、額縁)、である。
聖書は、文字、すなわち、書かれた言葉のみを、訳すように仕向けているのだが、実際には、書かれていない箇所、余白、欄外、額縁に、相当する領域には、目を向けないわけである。
したがって、デリダが述べたように、「聖書の、行間翻訳をした者は、存在しない」、わけである。

しかし、先の文献は、書かれていないものの、明らかに、神があと一日、何かをしていた、ということを、示唆する。


ちなみに、このことを、テーマにして、一作、小説を書き上げた、のである。
→ 『空白の街』 著 鈴村智一郎



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~ Comment ~

はじめまして

鈴村様。
はじめまして。あなたに向けて,何かを語ってみたいと思い,
あなたの書いた言葉に導かれつつ,私も書かせていただきます。

『聖書は,文字,すなわち,書かれた言葉のみを,訳すように仕向けているのだが,
実際には,書かれていない箇所,余白,欄外,額縁に,相当する領域には,目を向けないわけである。
したがって,デリダが述べたように,「聖書の,行間翻訳をした者は,存在しない」,わけである。』

聖書の余白――ある個所から次の個所を読むまでに,どれほど距離があるかわからないほどの空白。
有名な創世記第22章には,その顕著な例が見られると思います。

第1節から2節を引用します。
『神は彼に呼びかけた,「アブラハムよ」。彼は言った,「はい,ここに」。そこで言った,「あなたの息子,あなたの愛するひとり子イサクを連れて,モリヤの地に行きなさい。そして,わたしがそこで示す山の一つで,彼を全焼の供犠として捧げなさい」。』
ところが,驚くべきことに,続く第3節は以下のようにはじまっています。
『翌朝,アブラハムは早く起き,ろばに荷を乗せた。』

聖書の本文は,自身の愛するひとり子を全焼の供犠として捧げよ,という神の声を聴いた後,
翌早朝起床するまでのアブラハムについて,何一つ書き記してはいません。
この空白に横たわる,書き記されていないアブラハムについて,
もしも,ひらかれるようなことがあれば,
私たちのアブラハム観は,より驚愕と畏怖の念を増したことだろうと思います。

余白に注意深くなること,それどころか,進んで余白に分け入っていくこと,
書かれなった事実に目を向け,聴くことのできない声を聴こうとすること。
これは,テキストの読解作業という枠を越え,おそらく普遍的ともいっていい問題を呼び来たらすのではないでしょうか。
たとえば,鈴村様がゼーバルトの個所で書いた以下の言葉と無関係ではないと思います。

『ゼーバルトがいうように,我々は「記憶」を大切にノートに記録しなければならない。
 記憶の「忘却」とは暴力であり,書かれていない廃墟的な世界にまで足を踏み込まねばならない。』

この言葉は神学的に,『「起源の病理」,すなわちデリダの言葉を借りれば「際限なくアーカイヴを探し,抑え難い欲望によって強迫的に起源へと回帰していく運動」そのもの』としての「アーカイヴの病」を巡る発言として拡大解釈することもできると思います。

一方で,ショアー,ヒロシマ・ナガサキ,ホロドモール……etc忘れてはならないものがある,
余白化・廃墟化させてはならないものがあり,倫理的な動機から,
そのような廃墟化された世界へと踏み入っていかなければならないとも拡大解釈できると思います。

いずれにせよ,余白・空白,廃墟には,どこか他者性の痕跡が観じられるような気がしています。
いまはこれ以上詳しく述べたり,まして論じたりなどできませんが。

最後に,これを書いている私と,そうでないときの私との間には「ずれ」があるとしても,
心から,鈴村様のような方が歳近くしていてくださったことを嬉しく思い,感謝いたします。



[2011/08/05 22:42]  Izana Kitahara  URL  [ 編集 ]

Re: はじめまして

Izana Kitahara様へ

Kitahara様、貴重な御意見を寄せて頂いてありがとうございます。
あなたがご親切に引用して下さった創世記の該当箇所を再読しておりました。
確かに、2節と3節の間には、溝というか、折り目、襞のようなものが横たわっていますね。
おそらく、この間に、『ヨブ記』のテクストの総体に匹敵するほどの潜在的な、見えない、余白性を帯びたテクストが
秘められている(地下に埋葬されている)と考えることすら可能だと思います。
このような視点で聖書を俯瞰すると、きっと無数の折り目、襞のようなものが見出される気がします。

あなたが提示して下さっている「余白・空白,廃墟」について、デリダと対談したアメリカの宗教学者ジョン・D・カプートが、彼の脱構築運動そのものを「砂漠化されたアブラハム主義」と表現していました。
私はデリダの「コーラ」の概念のことを想起しているのですが、この捉え難い非―概念について、デリダは「自分の固有の場所を持たない非―場所からの働きかけ」として把捉していたと思います。
非―場所というのは、つまり「場所性」に帰属されないということであって、いかなる場にも属さない。
これは『出エジプト記』の、モーゼらの彷徨の軌跡とも類比的に捉えられると思います。
つまり、エジプトでもなく、その先にある希望のイスラエルでもない、「どこでもない」場としての、砂漠というのは、哲学素に還元すれば「コーラ」に相当すると考えられます。

(つづきます☆)
[2011/08/12 00:11]  tomoichiro suzumura  URL  [ 編集 ]

お言葉にこころから感謝致します!

(つづきです★)

私がデリダの著作を読んでいて感じる「風景」というのは、実は全てにおいてどこか共通していて、どれも人がほとんどいない「墓地」や、「廃墟」、あるいは「砂漠」、もっとエステティックで女性的なニュアンスを帯びると「海辺」といったものをイメージさせます。
彼は、ある何かがテーマとなり、スポットライトを浴びている時、あるいはある何かが特別に引用されたり再評価されたりしている時に、そこに「エルゴン(作品)の権力」を見出していたと思います。
これは、いわばそれ以外のパレルゴン(余白、作品の外)に相当する領域を地下へ追いやる、迫害する、捕虜にする、ということでもあります。
デリダが著作において目に付けるところは、常にどこか異様で、それはおそらくKitahara様も御存知の通りだと思います。
例えば有名な話ですが、デリダが『マルクスの亡霊たち』を書いたのは、フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」を主張して、社会主義が死滅し、自由主義が勝利を祝したそのことに「動機付け」があるというのは重要だと思います。
つまり、彼はいわば思想史からマルクスが地下へ追いやられ、墓場へ眠ろうとしたことを敏感に感じ取って、現代の自由主義陣営の思想家サイトが、「マルクス」を亡霊化した状態で再現前化していると主張できた。
「瞼を閉じた」と圧力をかけられたその瞬間に、マルクスを蘇生させること――「亡霊」として。
この切り口は、やはりどこから来ているかというと、私にはそれがカプートのいう「砂漠化されたアブラハム主義」である気がしてなりません。
或いは、もしかするとマルクスの出自に対するデリダのシンパシーも働いたのかもしれませんが。

長くなりましたが、私がデリダに惹かれる、模範にすべき何かを見出すのは、彼の高度な、そして隠された「文学性」にあると断言しても過言ではないと思います。
後期デリダは、東浩紀も指摘しておりますが、ほとんど自分でも何を書いているか定かではない「テクストの外部」のような表層の戯れにまで失墜しました。
これも無論デリダの戦略であったと思いますが、私はそういう側面も含め、彼のような論述、思考スタイルは日本の学者にはほとんど見られない稀有な天性であると思い、強く畏敬の念を抱いております。

Kitahara様のお言葉、確かに受け取りました。
心から感謝の意を捧げ、また今後とも互いに切磋琢磨していきたいと思います^^v-20
[2011/08/12 00:27]  tomoichiro suzumura  URL  [ 編集 ]















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