† 現象学  †

ポール・ヴァレリーの芸術論は、不完全であり、彼の「主体性」についての考え方も、最早、現代的に通用、しない


ポール・ヴァレリーの『エウパリノス』を読んだ。

『エウパリノス』

ここで、ヴァレリーは芸術の中で至上のものが、「建築」であると規定している。
これには彼なりに三つの理由がある。

1、建築は、実用的である。つまり、身体にとって
2、建築は、美である。つまり、魂にとって
3、建築は、持続である。つまり、時間にとって


そして、建築の創設は、人間が「無限」の空白を回避するために行われてきたものであると謳歌している。
この書では、また、神の創造行為が、人間の芸術創作と類比的に把握されている。
これは西欧では非常によく見られる考えだが、神の創造がアーキタイプとしてあり、そのミメーシスとして人間による芸術の創設がある、というわけである。

ヴァレリーのこの書では、建築を第一芸術として設定しているが、絵画が何故、それよりも劣るのか、といった根拠において、極めて説得力に欠けている。
絵画についての視点が皆無である以上、芸術の末端を、個人的に語っている、しかもソクラテスとパイドロスの対話という形式を借りて語っている、というだけに過ぎないのである。

絵画は、観る主体の「外見」を、「卓越化」する上での豊穣なデータベースであるが、ヴァレリーにはそれがどうやら無いようであり、極めて残念なのである。
我々が、たんに美術全集を観るだけでは足らずに、わざわざ実物に触れられる画廊へと赴く最大の理由は、我々自身の、「外見」の「卓越化」において、あるいは、身体デザイン、衣装デザイン、インテリアデザイン、など、あらゆるデザインにおける鑑識眼において、その拡張を感じるから、である。
ゆえに、レオナルドがかつて『手稿』で述べていたように、「絵画が第一の芸術であり、最高の芸術である」ということが、いえるのである。

建築は、あくまでも、「機能性」であり、「安心感を生み出す住居」である。
そして、そこに美が宿るのは、「祈る場」として、であるとか、「オーケストラを聴く場」、であるとか、そういう機能性に準拠した上で、成立する話なのである。
ゆえに、建築は、確かに文明の可視化された象徴として、有効ではあるが、芸術として認める時に、それが「最高の芸術」である、というには、あまりにも説得力に欠けるのである。



しかしながら、ヴァレリーは本書の中で、「一と多」について、興味深い説を提示している。
この箇所は、他のテクストよりも、一際、光り輝いている。

ソクラテス

わたしは多数の者として生まれ、たったひとりの者として死んだのだ。生まれたての子供は無数の群集なのだが、人生はたちまちのうちに、その群集をたったひとりの個人へ、自己を表示し、ついで死んでゆく一個人へと還元していく。わたしとともに数多くのソクラテスが生まれ、そこから少しずつ、いつか司法官の前に立たされ毒人参を飲まされることになるソクラテスが、切り離されていったのだ。



この箇所は、芸術論とは、また異なるテーマへと発展する可能性を持っている。
要するに、ヴァレリーは、幼子は匿名的な存在であり、個性が生まれるのはその幼子が存在論的に時熟してから、ということをいっているのである。
ユダヤの諺に、「ひとは、生まれる前に全知であり、産声をあげる時には全てを忘却する」という言葉が、ある。
幼子の、無知は、全知と、交換可能であって、いわば、象徴的に、幼子は、神として、認識されているのである。
名高い「三様の変化」において、ニーチェは、超人への過程として、駱駝→獅子→幼子、という認識論的な進化のプロセスを告知している。
これは、まず先賢の思想を吸収し、消化する駱駝、ついで、その思想を批判し、破壊する獅子、最後に、それらを全て受け入れ、新たに更新させる幼子、という思想受容の変遷を、新約流の「たとえ話」として、ツァラトゥストラの口から、語ったもの、なのである。
こうした例からもいえるが、幼子の無知は、神の全知と、交換可能性を秘めているのである。

しかし、ウェブ社会が、今後も高度に発達していく、現代文明にあっては、ヴァレリーの提示した、ソクラテスの考えでは、役不足、なのである。
我々は、確かに、幼子においては、匿名的であるが、成長して、「個性」を獲得したとしても、その「個性」は、容易に、最先端のメディア・システムを看取することによって、「匿名化」、されうるのである。
「個性」などというものは、存在しない。
ゆえに、ソクラテスには、いかなるオリジナリティも、無いのであり、ただ単に、彼以前の思想家の思想を、コピーし、このコピーされたものに、微分的な差異を与えたもの、であるに、過ぎないのである。
これと同様のことは、アリストテレスについて、ハイデッガーが初期神学論文で語っていたことにも、通じるのである。
要するに、オリジナルな思想家など、この世界には、存在しないのである。

明確に、定立された「自己」の証左として、「身体」を挙げる者も、いるであろう。
しかし、ダナ・ハラウェイの、サイボーグ身体論を持ち出すまでもなく、身体など、いくらでも、「技術」によって、模造品を、大量生産できるのである。
身体にも、思想にも、そして「感じ方」を策定する記憶情報にも、完全な「個性」などというものは、成立しない、のである。
人間の記憶は、確かに、匿名的な赤子が、少年から青年、青年から成年、そして老人へと成長していくに連れて、何らかの「個性」を自覚させ、それ故に、ヴァレリーをして「わたしはソクラテスである」という、自己定立を可能にならしめる、わけである。
しかし、「わたしはソクラテスである」という自己定立は、ただ、記憶情報によって、そういわれているだけ、なのである。
現代思想において、「主体性」とは何かを考える上で、「固有の身体など存在しない」ということと同様に、「固有の自我など存在しない」ということは、当たり前の前提、なのである。
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