† 現象学  †

ヴァレリーの、スピリチュアルな瞑想論のテーマは、「自分の木」を認識すること、にあるが、この思想的背景には、どうやら、北欧神話の神樹崇拝が、あるようである

ヴァレリーは、『樹についての対話』の中で、一つの、瞑想論を、提示している。
これは、ルクレティウスと、ティティルスによる、対話篇であるが、神話論的、かつ、宗教的な、意義も、濃密に帯びている作品である。

ヴァレリーが彼ら二人に語らせているところによれば、我々の、この身体の中には、少なくとも、一本の木がある。
この木を、仮に、「自分の木」と、呼称する。
この自分の木は、我々の精神や、感性の影響作用のもと、また、経験や、書物からの智恵などによって、様々な、成長を見せる、不可視の、樹木に他ならない。

ところで、創世前に、あるいは、創世におけるアダム創造以前に、既に、一本の、「聖なる木」が存在した、という神話が、本書にも登場している。
樹木にまつわる神話は、北欧神話における、ユグドラシルや、日本における、神樹信仰など、総じて地理的に森林地帯を含む文明において、顕著に生起しうるもの、であるが、ヴァレリーは、こうした神話の影響を看取して、一つの、瞑想論を、展開している。

ルクレティウス

世界のなかに瞑想する何者かがいるとすれば、それこそは<植物>だ、とわたしはいうのだ。



確かに、ヴァレリーのいうとおりで、我々は、樹木に対して、なんとなく、漠然とであるが、こころが、「やさしくなるような」、そういう「感じ」を、持つのである。
我々は、小さなサボテンであれ、小さなミニチュアローズであれ、それらを観賞用として、育てるのであるが、それはつまり、我々の憩いの場である、「自分の部屋」に、不可視であるはずの「自分の木」を、現出させている、と認識することが、できるのである。
この時、観賞用の植物などは、こころの中の「自分の木」の、表象=代理、である。
こころが、ひどく孤独で、絶望的で、どうしようもなく悲しく、かといって、それを誰にも話せず、辛く、もう死んでしまいたい、世界から消え去りたい、世界など消尽されよ! と、我々は、時に深甚な苦悩を抱くのであるが、そうした時に、ふと、自室で、つつしみ深く、健気に、咲いている、小さな薔薇を見ると、我々は、笑顔を取り戻し、「生」の溢れ出る泉のような、活路を、そこに、見出すのである。
植物は、ただ、外界の厳しさに耐え、まるで、沈黙する聖なる存在のように、受苦する。
その姿は、受難における、イエスである。

植物の、このような瞑想的性格を、ヴァレリーも、感じていた。
そして、我々は、創世記においても、やはり「善悪の知識の木」に見られるような、特別な聖なる木が、登場していることを、想起するのである。
「自分の木」は、「神なる木」と、家族的な関係性を持っており、いわば、我々はこころの中で、共に、森を持つ、のである。
それは、考える木、というよりも、むしろ、感じる木、である。

ヴァレリーは、さらに、「木の終末」として、「火」を、あげている。
この「火」は、神々の黄昏、「ラグナレク」を、前提にしている、と考えることも、できよう。

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