† 文学 †

ルイ=ルネ・デ・フォレによる、「作者によって裸にされた文学機械、さえも」

おしゃべり,子供部屋おしゃべり,子供部屋
(2009/10)
ルイ・ルネ・デ・フォレ

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《話す》という欲求に憑かれた男の物語(「おしゃべり」)、
口をつぐんだ少年をめぐる奇妙なゲーム(「子供部屋」)。
ことばの《在/不在》を問う《沈黙の作家》の珠玉の名作を、
オリジナルな形で収録。

かつて書かれたもっとも奇怪でもっとも衝撃的な作品の一つ
——ジョルジュ・バタイユ


※Copyright(c)水声社

 


以前から、どうしても読んでおきたいと決めていたフランスの作家デ・フォレの珠玉の作品集を読んだ。
この作品は、訳者が解説で読者の深い読みを待っているように、極めて難解な作品であり、作家を目指している人間のために書かれた作品である。
デ・フォレについては、近年も様々な批評が試みられているそうだが、大家としては、ブランショ、バタイユ、最近ではイヴ・ボンヌフォア、ジャン・ルードー、ドミニック・ラバテなどが研究を展開している。

デ・フォレは1918年にパリで生まれて、厳しい宗教的教育を受け、評論などをものした。1990年に全著作が国民文学賞を受賞し、2000年に没している。
つまり、まだ没後11年と、まだまだ研究がなされていない作家である。
バタイユが彼を「怪物」扱いしている点や、ブランショの高い評価を受けていた点などから想像されるかもしれないが、これは「物語」を構成した小説ではなく、「書く」とは何か? と、我々に問う作品である。

確かにこの作品は、極めて哲学的であり、無限の豊穣さを持っているが、同時に無限の虚無を孕んでいて、極めて危険でもある。
以下のテクストは、私が読んだ『おしゃべり』と、『錯乱した記憶』の、私なりの感想である。


『おしゃべり』

これは120ページほどあり、本書全体の3分の1を占めている中編小説である。
私はこれを読んでいて、ドストエフスキーの『地下室の手記』の内的独白形式に似たものを感じた。
あるいは、ブランショの『わたしについてこなかった男』や、ベケットの『語りえぬもの』、『伴侶』などである。
最も近かったのは、おそらくブランショの上記の作品と、ベケットの『伴侶』である。

この『おしゃべり』という小説が、ローレンス・スターン風の物語からの脱線や、読者への唐突な呼びかけ、書くスタイルについての省察など、従来の物語の構造を破綻させているということは触れた。
その上で、『おしゃべり』は、あまりにも話し続けているがゆえに――あまりにもとりとめもなく語り尽くそうとしているがゆえに――逆説的に「沈黙」に等しい孤独を感じさせるのである。

小説を書いている人間なら経験したことがあると思われるが、我々は「何も特に書きたいことがない」にも関わらず、「どうにかして書かねばならない」というような強迫観念に駆られることがある。
それが何故かというと、結局は我々が「書く」ことに一つの救い、希望、自由を見出したからである。
しかし、テーマが不在である場合、「とりとめもなしに書く」という手段を取らざるを得ない。
通常の作家であれば、こういう状態で書いた習作は全て、デスクトップ上に保管して終わるものだろう。
しかし、デ・フォレのこの上なく天才的な点は、それを逆手に取った点である。
彼は「とりとめもない会話」(=おしゃべり、とはいえ、小説である以上、モノローグによる書記作業である)を、究極まで先鋭化させたのである。
『おしゃべり』の持つ内的独白形式の、「とりとめのなさ」の本質はそこにある。
そして、そこに最大のテーマが潜んでいる。

『おしゃべり』のラストに、「ぼくは口を閉ざそう」という言葉がようやく出現するのは、象徴的である。
そして、この時の彼の感情は、「結局は勝負は敗北に終わってしまった」という、挫折感以外の何物でもない。
いわば、彼は「書く」という作業を中断せざるをえなくなったのだ。
もともと、「おしゃべり」に、向かうべき「目的」などない。
「おしゃべり=会話=パロール」は、本質的に「無目的」的に遂行されるものである。
例えば、近隣の婦人がたの「井戸端会議」などがそれである。
ある程度、話題が弾み、話の系列ができあがると、ほとぼりが冷めたように「じゃあ、またね!」と彼女たちは帰っていく。
「井戸端会議」は、しかし終焉に達したのではなく、明日に「持ち越された」のである。
この無限の「持ち越された」状態こそが、「おしゃべり」として象徴化されている、「書くこと=エクリチュール」の本質であり、それは常に「宙吊り」で終わらざるを得ない。

ル・フォネは、複数ではなく、単数で語る。
だが、書き手が単数で語ることなど不可能である。
というのも、彼は意識の中で、「読者」や、ほとんど幻想に過ぎない「恋人」たちと、対話という名の孤独な独白を繰り返すのだから。
ブランショは、ル・フォネにおける「読者」という主体の登場は、実は作者の分身=鏡像に過ぎないといっているが、これは「書く」ことに強く自覚的な作者なら、誰もが実感していることである。
自分以外の登場人物も、書き手が書くわけである。
その上で、他者化の強度が強い人物は、造形的にリアリティーがあると認識される。
しかしながら、それも極度に装飾を施された作者自身に他ならない。
ル・フォネの『おしゃべり』は、我々に改めて「書く」とは何か、そして「読む」とは何であるかを突き付ける。

私が彼のこの中篇を読んでいて感じたのは、彼が「おしゃべり」によって、逆説的に「沈黙」を表現しているということである。
これは、悪の壮絶な行為化によって、善とは何かを強制的に民に教えようとする暴君に近い行為かもしれない。
いわば、反対概念を極北まで極めることで、逆に「沈黙」をテーマとして垣間見せるのである。
これほど語っているにも関わらず、である。

不思議なことに、私はこれを書いてくれた作者に感謝している。
というのは、この作品は、「とりとめもなく書くこと」を自分で正当化し、挙句に挫折するという点で、いわば全ての書き手の「苦悩」や「倦怠」を先取りしているからだ。
デ・フォレがもたらす、奇妙な安心感。



『錯乱した記憶』


この作品は、短編として独立しているが、明らかに『おしゃべり』に有機的に吸収されて然るべきである。
それは、『おしゃべり』と同じような読み方が可能だ、という意味である。

彼は記憶を遡り、それらを幾つかのシークエンスとして回想していく。
文体は、(  )が入ったり、――によってテクストの内部に島宇宙が発生したりして、饒舌で、どこか美しい。
しかし、彼はベケットと同じく、「語りえないもの」を語ろうとし、混沌を招き、挫折する。
挫折? 否、そうではない。
それは「区切り」であり、新しい小説の始まりへと繋がる終幕なのだ。
デ・フォレにおける「語り」は、常にアルファであり、オメガなのである。

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~ Comment ~

魔の山

賀正 今年はインフルが流行らねば良いと思います。
魔の山@佐藤晃一訳 世界文学全集54筑摩 この人の訳が、割と読み易かったす。  チェーホフ@木村彰一訳 世界文学全集40筑摩   トニオ・クレーガー 浅井真男訳 以上はトーマス・マンだったか?それから・・・ジェーン・エアと嵐が丘 阿部知二訳@世界文学全集11河出書房は、読み物として面白かった。
鈴村王子の好みには?分かりませんが…止められ無い後を引く本でした。
          草々
[2011/01/05 12:50]  昼時間  URL  [ 編集 ]

魔の山 映画

追伸 http://www.youtube.com/watch?v=UqUecXceQqE&playnext=1&list=PLD17A00AB36A41297&index=4 魔の山はかなり、長めの作品なんで、最初NHK衛生放送でこの古い映画を観て、だったので・・・それから読んだ方が。
         草々
[2011/01/05 18:36]  瀬戸大橋  URL  [ 編集 ]

リスト載せてくれてどうもありがとう^^

世界文学の巨匠は、実はあまり読んでないですね。
チェーホフ、ドストエフスキー、ダンテ、ヘッセ、ゲーテ、などは読んでますけど、マンやバルザック、ブロンテなどは読んでいません。
とても長い作品なので、もしかすると老後まで取っておくことになるものもあるかもしれないです。
現在、私はマルケスの『コレラ』を読んでいますが、55ページに至ってなお、冗長というか、長編らしくあまりストーリーが展開していない気がしていて、なんともせっかちになってしまいますね^^

寒いので、体には気をつけて。
[2011/01/05 19:58]  鈴村智一郎  URL  [ 編集 ]















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