† ジャック・デリダ †

東浩紀のデビュー作に潜む、「デリダの幽霊」

現代社会における「わたし」という一回性の固有な存在を逆説的に問いかける『指紋論』によれば、「指紋」というオルガノンは、「わたし」という存在を堅固に証明するためのツールである。
それは「身元の証明・確認」のための道具であり、アイデンティフィケーション(身元保証)にとって有効なものである。

指紋論 心霊主義から生体認証まで指紋論 心霊主義から生体認証まで
(2010/10/23)
橋本 一径

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『指紋論』には、ミナ・クランドンという霊能力者が行った「霊媒」についての、実に興味深い報告がある。
彼女は「霊」を証明するために、その「霊」に「指紋」を取らせて、これをメディアに発表したのだ。
「霊」という、得体の知れない、身元不明で不定形、かつ神出鬼没で匿名的な存在に、別の男性の指紋をあらかじめ採取しておいて、それを証明に用いたのだ。
ここには逆説が働いている。
結果的に、彼女は「指紋」を公開したことで、それが誰の指紋であったかを暴き出され、「霊」が実在しなかったことを明るみに出させたのである。
「指紋」というのは、「場所のウェブ化」が進み、個人が幽霊的に匿名化=キャラ化している現代社会にあっても、未だ強力に「わたし」であるということを証明する決定的な科学的方法である。

この「わたし」とは何かについて、東浩紀のデリダ論『存在論的、郵便的』は、素晴らしい再読可能性を孕んでいる
東の論述、特にデリダの「幽霊」についての説明は、非常に刺激的で有意義な時間を与えてくれる。

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて
(1998/10)
東 浩紀

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東の読解した「デリダ」を、以下まとめ直してみよう。
その上でのキーポイントは、やはり「幽霊」である。

デリダによれば、「割礼」という行為と、エクリチュールによって行われる「割礼告白」には決定的な差異が存在する。
「割礼」は、一回性の宗教的な儀礼である。
ベンヤミンの言葉を借りれば、そこには「一回性の神秘」、すなわちaura(アウラ)が宿っている。
対して、書かれた割礼、すなわち「割礼告白」は、ユダヤ教徒であれば誰もが書くことができる、いわば匿名的なものなのだ。
固有な身体に刻み込まれる「割礼」と、その表明には、「個人的なもの」と、「匿名的なもの」という差異があるのだ。

匿名的なもの、それは「反復するもの」であり、「再来するもの」、「再び書かれうるもの」である。
こうした、反復し、再来する、匿名的なものを、デリダは「幽霊」と呼称する。
対して、一回性の神秘を伴うものは、個人的なものであり、そこにはauraが宿る。
ここでなかなか面白いのは、東も注目している「カレンダーの日付」と、「個別的なそれぞれの一日」の差異だ。
一日のそれぞれには、確実な「一回性」の反復不可能性が働いている。
そこにはauraがあり得るし、無自覚であれ、全ての一日はオリジナリティに満ちている。
しかし、カレンダーの日付はそうではない。
カレンダー上では、「1月1日」は、七十年の生涯の人であれば、七十回「反復」される。
それぞれの1月1日には無論、差異があるが、カレンダーというシステムは、いわばそうした一回性のものを形式化、匿名化するデザインを持っているのである。

これと同じコンテキストで、デリダは「プラトンとソクラテス」について語っている。
プラトンとは、ソクラテスの教えを書いた人間である。
ソクラテスは何も書かなかった。
いわば、プラトンはソクラテスという「一回性のaura」を、「エクリチュール」という「匿名的、幽霊的」な制度のもとに従属化した人物でもあるのだ。
行為としての「割礼」と、エクリチュールとしての「割礼告白」に差異があるように、「話すこと」と「書くこと」には差異がある。
プラトンは、ソクラテスの発話が本来的に宿していた、何かデモーニッシュな霊性を、「文字」の制度によって劣化させた可能性すら否定できない。
デリダは、このようなプラトンのディスクールの「余白」に注目した。
しかし、他方でプラトンには、ソクラテスという一回性のオリジナルな人物を、「文字」化させることで歴史化した、という功績も存在する。
いわば、プラトンとは、ソクラテスにとって、「毒」でもあり、「薬」でもあるのだ。
デリダがプラトンを、pharmakon(パルマコン/毒=薬)と呼ぶのはそのためである。

では、何故デリダは「匿名的=幽霊的」なものを、ネガティブに捉えていたのか?
そこには、やはりデリダというユダヤ人が共通して担う、「アウシュヴィッツ」という出来事が存在している。
あの出来事によって、哲学史に浮上してきたのは、「一回性の、固有な私そのもの、私という一人が世界に存在していることの確実性」である。
それは、同じテーマを担うボルタンスキーの芸術作品に観られるような、「固有名」の厖大な蓄積としても窺える。
災厄によって生起したのは、「固有名」を持ったユダヤの民が、その名を剥奪され、地下に埋められてしまうという出来事であり、そこには「固有名の匿名化」、「幽霊化」、「クリプト(隠匿)化」という事態が伴っている。

デリダにとっては、「エクリチュール」というものは、本質的に「<わたし>という一回性のaura」を隠匿化するものなのだ。
それは、毒でもあり、薬でもある。
デリダにとっては、彼がユダヤ人で「居場所を喪失した歴史性を背負う」出自であるという以前に、「書かれた言葉」そのものが、既にしてユダヤ的ではないか、という葛藤が働いているのである。

東が注目しているもう一つのテーマは、デリダの著述スタイルの変化である。
彼は、後期デリダは「パフォーマンス」に堕したと見ており、そこには他の研究者もいうように、「読むべきものがない」という意見に賛成はしている。
だが、後期デリダの「失敗」は、「有意義な失敗」であったとも評価している。
東はデリダの後期の著作で、最も「読むべきものがない」本であると同時に、デリダ思想の当然の帰結でもある『絵葉書』をピックアップしている。
この書では、「概念」が「郵便物」に、「哲学者」が「郵便局」に置換されている。

「un grand penseur, c’est toujours un peu une grande poste(偉大な哲学者、それはいつも、ちょっと大きな郵便局なのだ)」 by デリダ『絵葉書』

哲学史とは、「郵便物が郵便局へ」、次々と配送されていくだけの閉鎖的な世界である。
フッサールは「デカルト」に回帰し、ラカンは「フロイト」に、ハイデッガーは「ソクラテス以前」に回帰した。
かつての概念が、名前や文体を変えて、「再来する」という、エクリチュールの特性そのものが、いわば哲学史における、「郵便物=概念」なのである。
哲学者は、いわば概念を「発掘」するだけに過ぎない。
実際、東も「哲学の歴史は、固有名の集積」であるという考えを表明している。

こうした中で、デリダは「行方不明の郵便物」にあえて目を向けたといわれている。
行方不明、身元不明、宛先不明、住所不明――こうした「匿名的=幽霊的」な「概念」によって、おそらくエクリチュールそれ自体の「幽霊性」を暴き出そうとしたのであろう。



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