† 存在論 †

ジル・ドゥルーズ『無人島』ーーエデンの園は、本当にアダムにとって「起源の土地」だったか?

Imperfectfiction 12
by Imperfectfiction

このページでは、ドゥルーズの極めて重要な論文「無人島の原因と理由」で出現する幾つかの概念を用いて、ユダヤ・キリスト教神学において重要かつ最初の位置を占める『創世記』を解体する。

我々キリスト者にとって、『創世記』とは常に懐かしい郷愁を抱かせる書物である。
とりわけその「エデンの園」の描写における特異なイメージ喚起力、失楽園に及ぶ劇的なプロセスには涙を誘うものすら漂っている。
だが、「エデン」は果たして本当に「始原の大地」なのであろうか?
このページでは、ドゥルーズの文学的な表現としての「無人島」を、意図的に「エデン」に還元させて読解することで、その論文の神学的な力に急迫してみたい。

ドゥルーズは以下のように「エデンの園」の本質について解明している。

「エデンにはどんな生き物が棲んでいるのかには、ひとつの回答しかないことになる。
そこに棲むものは、すでに人間である。が、並みの人間ではない。
絶対的に分離され、絶対的に創造的な人間だ。
……ここには、自己自身に先立つ人間がいる」



ドゥルーズの文脈に沿っていえば、エデンとはまさに、「想像的な者たちの棲む想像的な島」である。
それは一種の現存しない「無人島」に他ならない。
だから、ここでドゥルーズが「イースター島の立像」や、「美しい魔女」たち、という表現を並列的に使うのは当然である。
彼らも、やはり「想像的な無人島」、すなわちエデンの一形式だからである。
いうなれば、エデンとは、「想像的な無人島」の起源、であるかのように思われる。
事実、我々カトリックの信徒にとってのみならず、ユダヤ教徒にとっても、「エデン」は、アダムとイヴの生まれた土地であり、「いかなる地理学者からの権力も受けない想像的な無人島」である。
そこでは主体がイメージ力を使って自分の分身を住まわせることもできる、想像的かつ創造的な島でもある。
だが、ドゥルーズはこの「起源」にも鋭い視線を向けている。

「エデン自らが創造をするということはない。が、再創造ならばある。
そこに開始はない。が、再開ならばある。
エデンは一つの起源である。しかしそれは、第二の起源なのだ」



これはどういうことなのか?
エデン以前に存在していた大地とは何であるか?
ドゥルーズにとっては、(これは極めて衝撃的な思考力であるが)、エデンの以前にアラトトの山が屹立している。
アラトトの山とは、周知の通りノアが洪水後に最初に下り立った山の頂である。
これは時系列的に見て、エデン以後の事象であるはずだ。
しかし、ドゥルーズはいう。

「世界の形成は、誕生と再生という二つの時、二つの段階においてある。
第二のものは、第一のものと同じくらい必要かつ本質的である。
したがって、第一のものは必然的にやり直しへと巻き込まれ、それに向かって生まれ、破局のなかで既に再否定される」



この上なく素晴らしい魔術的な思考力という他ない。
ドゥルーズの論理に従えば、アラトトの山は起源であり、同時に第二のエデンである。
したがって、「第二の」というこの系列は平易に「第一の」ものと交換可能である。
我々は今、広大な運動場の片隅に広がる砂場に立っているとしよう。
我々が手でそこに砂の城を築くと仮定せよ。
この時、ボルヘスの美しい表現をそのまま借りれば、「我々はサハラ砂漠の形態を変えている」のである。

あらゆる「起源」は、常に既に廃墟化されている。
デリダが述べたように、「起源に廃墟が到来する」のである。
つまり、エデンの園は「起源」である限り、既に「第二の大地」であるに過ぎない。
エデンに先立つ別の古い「無人島」が存在していたはずなのだ。
それは、どこか?

「(エデンによって)一切が開始される、というだけでは十分ではない。可能な結合の循環がいったん完成されれば、一切は反復されるのでなくてはならない。
第二の瞬間は、第一の瞬間の後に続くものではない。
第二の瞬間は、他の諸瞬間がみずからの循環を完成させた時にやってくる、第一の瞬間の再出現なのだ」



このテクストは、何十時間もかけて厳密に、執拗に、異常な集中力をこめてゆっくり読み解かれねばならない。
私はこの本に十八歳の時に出会ったが、未だにまだこのテクストの真の謎を解けていないことを知っている。
エデンからアダムとイヴは去った。
今度はその子孫に洪水が及び、人間は土地もろとも「更新」される。
この時、アラトトの山とは、エデンの「再出現」であり、すなわち円環の内に存在することになるのである。
イエスが十字架に処されたカルワリオの丘とは、苦難に襲われたヨブの住まう土地の「再出現」である。
否、そればかりではない。
イエスとは、(これは実際に神学的にそう呼ばれるが)「第二のアダム」であり、「新しいアダム」である。
このような円環の思考を看取すれば、愕くべき神学的視座が生まれる。
イスカリオテのユダとは、イヴを誘惑したあの蛇の「第二の瞬間」であり、天から墜落したあの美しい天使とは、パウロに徹底的に批判された魔術師シモンの「第一の瞬間」である。
これらの、原型と変奏のループ構造の時系列を逆転させても良かろう。
すなわち、イエスの磔刑は、エデンの園以前に生起したのである。
私は昨夜、ユダが銀貨を持って焦燥にかられた面持ちで走る姿を見たのであり、三時間前に、イエスは復活したばかりなのである。
「時間」の流れに、「時制」を設定することは有効ではない。
全ては、一挙に生起するのである。
それは、皮膚が総毛立つ時を彷彿とさせるような、過去と未来と今の全時的な結合である。

「第二の起源は、第一の起源より重要であり、それは神聖な島である」



「最初に生成される」ということには意味が存在していない。
意味は、既にそれ以前に存在しているのだから。
エデンの園の意味は、『創世記』を読むだけでは解明されない。
それは、『創世記』に「先立つ」、「第二のエデン」を読み解くことで、はじめて意味を生成させる。

我々が詩を書いている時、それがどうして「詩篇」の作者を反復しているといえないことがあろうか?
我々が小説を書く時、それがどうして「福音書」の作者を反復しているといえないことがあろうか?
我々が女性を愛する時、それがどうしてイヴに対する最初の恋慕を反復しているといえないことがあろうか?
貴方の苦しみは、既に貴方以前のより大いなる預言者の苦しみなのである。
貴方の孤独は、既に貴方以前のより崇高なる預言者の孤独なのである。
あらゆる人間は、何らかの形式で、「聖書」の中の登場人物を無意識に人生において反復する。

だから、生きることにおいて、何も怖れる必要はない。




無人島 1953-1968無人島 1953-1968
(2003/08/26)
ジル・ドゥルーズ

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