† 文学 †

ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転 デイジー・ミラー』



ねじの回転デイジー・ミラー (岩波文庫) ねじの回転デイジー・ミラー (岩波文庫)
ヘンリー・ジェイムズ (2003/06/14)
岩波書店

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“アメリカ的なもの”と“ヨーロッパ的なもの”の対立を扱い、一躍ジェイムズの文名を高めた「デイジー・ミラー」。
その解釈をめぐって議論百出の感のある、謎に満ち満ちた幽霊譚「ねじの回転」。
“視点人物”を導入した最もポピュラーな中篇二篇を収録。
新訳。



「ジェイムズの肖像」(まるでゴシック小説の伯爵の如き)

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『ねじの回転』

まだ途中までしか読んでいないのだが、どうしてもデリダの「亡霊性」概念とリンクしているように感じられて、『ねじの回転』のプロトコルを残しておくことにした。

まず、冒頭だが、クリスマス・イヴの夜、ある大きな洋館で幽霊話をする描写から開始される。
参加者は「私」と、ダグラス(幽霊話の語り手)、そして他の誰か多数である。
しかし、ここで注意点がある。
ダグラス自身が体験した幽霊話を語るわけではないのだ。
彼は20年前に死去したある女性から渡された「手記」に輪郭を得て、第三者が経験した恐怖について物語るわけである。
そして、「私」がここで聞いたダグラスの話を、後年文書化したものが、いわば本書に当たる。
このように、幽霊話には往々にして見出される入れ子型の不確定性が筋書きの骨格として存在する。
では、ダグラスに「手記」を渡したその女性(ダグラスが片想いしていたのだが)は、一体いかなる恐怖を経験したか?
それがゆっくりと物語られるわけだ。

女性を便宜上「わたし」と呼ぶことにする。
「わたし」は家庭教師として、立派な洋館でフローラ(少女)と、マイルズ(少年)という二人の兄妹の世話をすることになった。
家政婦も親切で、ミセス・グロウスとして慕われている。
何一つ不可思議な点などなく、「わたし」は天使のように純情な二人の勉強役を務め始める。

しかし・・・。

ある夕暮れ時、「わたし」は館内の旧塔で奇妙な人影を発見する。
当初、「わたし」は仕事の依頼主だと錯覚するが、実際は正体不明の、全く知らない謎の男であった。
この描写が、あまりにも静かすぎて、非常に不気味なのである。
「わたし」はこの男の気配を、「死の世界」と呼ぶ。
彼女は直感して「死」を雰囲気で感じ取ったわけだ。
不気味なのはこの謎の男の仕草である。
彼はひたすら、じっとこちらを見つめている。
そして、両手を壁面につけて、ゆっくりと塔の上を移動していくのだ。
彼は、そのまま塔の影に消えてしまう。

恐怖を感じた「わたし」は、ミセス・グロウスに不気味な男について質問を投げかける。
すると、問答の末、「ピーター・クイント」という昔この館で雇われていた下男であることが判明する。
しかし、彼は既に亡くなっていた。

その後も、クイントの幽霊は「わたし」の前に姿を現す。
彼は危害を「わたし」には加えず、子供たちを狙っているような気配を漂わせる。
ここで注意しておきたいが、「わたし」の精神状態はこの辺りから極めて不安定で誇大妄想的になっており、ありもしない詮索をすることもしばしばである。これが本作の重層的なコードである。
その後、「わたし」の前任者の若い女性(ミセス・ジェスル)が、クイントと何か悪いことをし、子供たちまで誘い込もうとしていたということが判明する。
しかし、この前任者も既に亡くなっている。
「わたし」はこのミセス・ジェスルの怖ろしい幽霊にも遭遇する。

更に、物語のコードを複雑化しているのが、子供たちである。
子供たちは、時おり「悪い子ゲーム」をしていたことが、判明する。
一体どこからどこまで子供たちの悪戯として解釈すればいいのかは定かではないが、とにかく、「わたし」が子供たちのゲームに、知らず知らずのうちに参加していたことは否定できない。
だとすると、「わたし」の前に登場した幽霊たちは、何だったのか?

私が読んでいるところまででは、まだ何も解決されていない。
もしかしたら、ミセス・グロウス(共に幽霊から子供を守ろうと相談役になってきた家政婦)さえもが、「ゲーム」の一つのコマなのかもしれない。
事態は重層化し、妄想と現実、事実とゲーム(虚構)の境界線を喪失していく・・・。まさに、英国文学の巨星ジェイムズならではの「仕掛け」が随所に立ち現われる。
(因みに、映画『アザーズ』ニコール・キッドマン主演の原作は『ねじの回転』である。




『ねじの回転』は1898年1月から4月まで「コリアーズ・ウィークリー誌」に連載された。
1934年、刊行後6年経過した年に、エドマンド・ウィルソン(批評家)が「女家庭教師妄想説」を主張する。
1948年、ロバート・ハルトマンはキリスト教的象徴の反映として『ねじの回転』を評論する。
訳者の解説に依拠すれば、これはヴィクトリア朝時代の階級社会を反映させた出来事としても再解釈可能だということである。

読了したので、私自身の感想を綴りたい。
これは明らかにウィルソン氏の見解が適切だろう。
そもそも、「わたし」以外の全ての登場人物には、幽霊が見えていない。
そして、「わたし」の心理過程も動揺と不安から常軌を逸するようになり始め、彼女の発言に論理性を認めることは困難である。
ただし、フロイト主義的な性ヒステリーとして本作が完全に位置付けられるわけではない。
「幽霊出現説」というロマンティックな可能性を支持可能である側面は、やはり最初に彼女が見たクイントの幽霊である。
クイントの存在を知らない彼女が、死者である彼を見るということ、そして家政婦ミセス・グロウスが彼について「わたし」に説明するという一連の過程から、どうしても単なるヒステリーとして解体してしまうことはできないのである。
「ねじの回転」とは、物語の仕掛けが二重、三重に仕掛けられている、ということからジェイムス自らが名付けたようだ。その通りである。
この作品は、おそらく時代を変えて何度も反復可能だろう。
ただし、雰囲気はやはり最初に幽霊が登場する辺りの頃が神秘性という点では最高潮だと感じられる。
後半になると、「わたし」の精神的な乱れが特筆されており、幽霊に対する読者の注意力、好奇心が失われるようにさえ感じるのだ。

改めて、「わたし」をこのように錯乱させたものの正体を巡って、「幽霊」とは『ねじの回転』においては何だったのか、一考に価するだろう。



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