† ジャック・デリダ †

ジャック・デリダ『留まれ、アテネ』

留まれ、アテネ留まれ、アテネ
(2009/12/18)
ジャック・デリダ

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休日に、久しぶりにデリダのアテネ旅行記『留まれ、アテネ』を読んだ。
この本は薄いが、内容は非常に濃い。

私がこの本を読みながら考えたことは、「書く」とはどういうことであるか? ということだ。
これは前回書いたジョルジョ・アガンベンの主著『言葉と死』についての記録とも密接に関係するテーマである。
例えば、私たちは生きていく上で詩を書いている。
小説も、散文も、評論も、詩の一形態に過ぎない。
我々が詩を書くのは(否、書かざるをえないのは)、一体なぜなのか?
それは、今の私には人間が「言葉を書く動物」であるからだ、というのが答えであるように思われる。

デリダは本書で「文は、拒みながら身を預ける」と綴っている。
何かの詩を読んでいて、大きな感銘を受けた時に、私たちの中で以下のようなプロセスが起きたことはなかっただろうか?
「この詩の中のこの言葉を、自分の言葉として密かに所有したい」。
実は、これがおそらく非常に重要な「書く」ことの本質ではないだろうか。
デリダによれば、文はまず、「前貸し」として我々に迫ってくる。
ある言葉、ある文章、あるいはある美しいイメージについてのセンテンスのブロックにおいて、その言葉が自分にとって魅惑的に迫った時、それはその文に対して我々が何かを「借り受けている」状態に近いと考えることができる。
「借り受けている」というのは、まだ自分の言葉として消化されてはいないということだ。
いわば、はじめは「未消化」なのである。
ただ気に入るとか、ただこのフレーズが好きだとかいって諳んじることは容易いが、こういう状態と「体内化」された真の言葉を持っている状態とでは、一体何が違うのだろうか?

本をただ読むのではない。
本の中で、本当に自分に迫ってくる文章というのは、実はわずかなのだ。
だからこそ本との出会いはひとそれぞれなのである。
そうしたプロセスにおいて、「この言葉を借り受けたい」と願う魂の状態が、いつしか「本当に私の言葉になっていた」という状態にまで至る動きは、どのようなコンテキストで捉えられるべきなのだろうか?
それこそが、おそらくデリダが本書で「写真」を実際に「撮影」した最大の動機である。
本書の魅力の一つは、20世紀を代表するユダヤ系フランス人哲学者の実際に撮影したアテネの写真を眺めることができるというだけではない。
デリダが写真をわざわざ撮影したことは、明らかにエクリチュール(書く行為)と深い繋がりを持っているからである。

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by Hedi Slimane

それでは、「写真」と「文」とでは、何がどう違うのだろうか?
写真というのは、実は本質的にいえば、「一度きりでかけがえのない瞬間の記憶」なのである。
無論、複製することはできる。
しかしそれは写真の量的次元でのコピーであって、オリジナルのコピーではない。
オリジナルとは、この場合「その時の瞬間」であり、これは時間が巻き戻せないように、けしてコピーすることはできないのだ。
繰り返そう、写真とは、「一度きりで、決定的なもの」である。
デリダが歩いたアテネの情景――例えば、「墓石のあいだの小道」や「手足をもがれた彫像」の傍、「廃墟と化した神殿」、「蚤の市での骨董店」、それに「市場の路地裏で見かけた死んだ動物」――こうしたものは、デリダ個人が遭遇した、まぎれもなき「一回性の瞬間」であり、写真とはその記憶である。

こうした「写真」の持つ概念から、デリダは以下のような夢想に耽り始める。
それは、「一枚一枚の写真は、実は他の色々な写真と繋がっているのではないだろうか」というものだ。
被写体に映ったアテネの老父は、同じアテネに暮らす別の少女と、けして日常的に語り合いもせず接点がなくとも、「アテネの写真」の中ではコード化されて接続されている。
写真とは、まるで一つの「固有名」のように、オリジナルで、かけがえのない「その人物の存在」らしさを象徴化したものである。
だから、写真の群れというのは、「固有名」=「被写体」同士を無意識に接続させる力を持っているのだ。

こうした「一回性」で、かけがえがなく、同時に「他のものを喚起させる力を持つ」という点は、文も同じである。
文もやはり、「一回性の出会い」として受け止めると、それだけ重みが増す。
この「一回性」を生み出すのは、もちろん、その時の書き手の心理状態などだ。
その時の瞬間の気分でしか書けない詩というものが存在するのは、このためだ。
今書かねば、もう二度と同じフレーズで書くことはできない――それこそが、文の「一回性」の由縁である。
写真が複数の写真を同時に喚起させるように(デリダの場合は、同じアテネに暮らす人々同士の接点)、文も実は、一つ一つが別々の異なる本とネットワークを持って宇宙の銀河のように繋がりあっているのである。
本が持つメディア形式の境界線を越えて、手を繋ぎあうセンテンスのイメージを思い起こそう。

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by Hedi Slimane

要するに、「写真」も「文」も、共に神秘的なものなのである。
それらは、二度は現前しない。
一度しか、一度きりしかこの世界に出現できないものなのである。
美しいのは、デリダが「文」を「女性」としてデリケートに扱っている点だ。

「彼女は拒みながら、身を預ける」

この「彼女」=「文」に魅惑され、やがては自分の言葉=「文」=「彼女」として体内化するまでのプロセスが、おそらく「書く」ことの神秘的な秘密の核心なのである。


以上が、私がデリダの散策と写真、そしてパンセから導いた「写真と文字の接点」である。
補足的に付記しておけば、本書でデリダは写真を「光のエクリチュール」と呼んでいる。
また、写真が出現した時代にはその時代に即した存在論が、ウェブが出現した時代にはその時代に即した存在論の文脈が世界に求められる、とも静かに告げている。
さらに、これはおそらく読む人が読めば最も興味深く、デリダ的な箇所だろうが、彼は、「完全に音を失ったビデオ、CD」について、それらを「喪に服すマルチメディア」というキータームで把捉している。
ネットの中の「Page not found」や、「管理者のいないブログ」、「誰もいないチャットルーム」、「投げ出されたツイッター」なども、デリダ的なレヴェルで「幽霊性」に帰属される、「喪のマルチメディア」ということができるだろう。

最後に、デリダは写真を越えて、あるいは被写体の人物と目が合うそうしたドラマの中で以下のようなことを記していた。それはプラトンの『アルキビアデス』の一節として印象的に綴られる。

「他者の瞳には、自分の<顔>が映る。この顔は、人間的なものの最良の鏡である。それは、<神>として見て取ることができる」

自分だけでは、自分は見えない。
他者という超越を通過して、はじめてその他者性の内部に「自己」を見出すことができるのだ。
イエスとかけ離れていると苦しんだ放蕩息子が、実は自分の苦悩がゲッセマネの苦悩を反復しているということに気付き、回心したイマジナリーなエピソードをここで記しておこう。

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