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鈴村智久の研究室

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キリスト教神学の未来ーージャン=リュック・マリオンの主著『存在なき神』を中心にして

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存在なき神 (叢書・ウニベルシタス)存在なき神 (叢書・ウニベルシタス)
(2010/08)
ジャン=リュック マリオン

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存在論を、特にマルティン・ハイデッガーその人を悪魔祓いすること――これが我々の目下の課題である。
その為の必読書として現代世界に屹立する書がある。
ジャン=リュック・マリオン(Jean-Luc Marion 1946-)の革命的な「神学書」である『存在なき神( Dieu sans l'être 1982)』である。
このページでは、彼の本が持つ数知れないインパクトを吸収して、可能な限り「自分本来の言葉」で書くことをしてみたい。
というのは、この書を読んだだけでは、我々は未だに「神学」の呪縛から解放されないからである。
神学とは、この場合、創造主である神と、被造物である人間という関係性――換言すれば、「存在」と「存在者」の根本的な差異――「存在論的差異」に汚染された学問体系を意味している。
これについて異論があるだろうか?
神学は、「神が人間を創造した」ことを根本に置く学問である。
そして、これこそがマリオンが述べているように、「存在論的差異」に支配されているということなのである。
そこから「跳躍」するためには、どうすればいいのだろうか。
道筋のない、この圧倒的な「全知全能」の神を前にして、我々はどうすればその呪縛から解放されるのだろうか。

カトリックのみならず、キリスト教神学は一般的に「神は愛である」ことを確信する。
では、そのことをまず認めることにしよう。
そう、確かに「神は愛である」と、把捉しえない豊穣な、「涙を流す孤児の顔として到来するもの」(レヴィナス)である、と。
だが、果たして本当に神は「愛」であるのか?
仮に神が愛だとするならば、我々被造物を創造したのは他でもない「愛」である。
十二世紀の天才的な神学者であったヒルデガルト・フォン・ビンゲンの幻視的ディスクールを借りれば、「世界の起源に存在するのは、聖なる愛であった」。
だが、「聖なる愛」(ラテン語でいうcaritas)が我々を創造したとするならば、我々はこの時既に、ハイデッガー的な魔手に汚染されているということができるのである。
何故なら、ハイデッガーのいう「存在論的差異」とは、「存在」(創造主)と、「存在者」(被造物)という厳格な差異性を意味するのだから。
愛を創造者にしてしまうことで、存在論的差異は顔を出すのである。
つまり、あくまでも「愛」の教えに立つ限り、我々はキリスト教神学的な「存在論的差異」の呪縛から解放されない。
一体どうすれば、この差異を崩壊させられるのであろうか?
それこそが、本書を読む上での最大にして唯一の課題である。

マリオンはこの「存在論的帝国主義」を無効化するために、「存在なき神」という画期的な表現を用いる。
断っておくが、これはあくまでも表記であり、「概念」ではない。
というのは、「概念」こそは、「偶像の黄昏」(ニーチェ)を生み出す哲学の根本的な病理だからである。
哲学は、「概念の創出である」(ドゥルーズ)が、それは哲学が語りえないものを常に独自にカテゴライズして、あるキーワードによって包摂するからである。
この「概念」に含有されるものは、実は「神の属性」でもある。
トマス・アクィナスが述べたように、「神」には六つの名高い属性が存在する。

・一
・善
・全知
・全能
・有
・愛



「一」とは、「多」でもあるので、神は一者にして数多的に「遍在(ユビキタス)」化された超越である。
また、ライプニッツが述べたように、神の行う「災厄」は、我々に「悪」を時として感じさせるが、「予定調和による最善世界の選択」の原則を看取すれば、全てはより巨大な善のために必要な悪である。
すなわち、神は「善」のために「悪」を放つのである。
こうすることで、神を「善」に閉塞させるカトリック神学の大いなる病理としての二元論は克服される。
だが、これら六つの属性は、「愛」も含めて全て厳密に「概念」として構成されてきたものに過ぎない。
いうなれば、我々が普通耳にしたり読むうえで出会う神とは、あくまでも人間が恣意的に「概念化」させた神であって、人工性の言葉による産物なのである。
マリオンはこれを、「概念的偶像」と呼んでいる。

キリスト教神学における神は、この「概念的偶像」によって構成されている。
それは真の神ではなく、人間的な感覚様態の規則を普遍化した一種の「法的なシステム」から織り成された「言語的構造体」である。
マリオンは、こうした概念としての神と、真に思惟しえないものとしての神を区別するために、後者の神を、



と表記する。(正確には十字架による×印が引かれるが、このサイトでは機能上打消し線を使用する)
このは、最早従来の「神」に賦与された存在論的な意味を無効化させている。
そもそも、思惟しえない神は、「神」という言葉にも、その他の属性にも依存しない。
神は、否定神学的な表現を使えば、人間のいう「愛」でも、「一」でも、「善」でもないのである。
それは超越ですらない。
それは「~ではない」という表記でしか表現できないという限界性を越えた、非―概念の「彼方」なのである。
ゆえに、我々はここで「神」という表記を放棄せねばならない。
神は、ではない。
正確にいえば、が真に「思惟されえぬもの」である以上、それが神学的概念によって定義「されてはならない」のである。

このように、二十一世紀の「思惟されえぬもの」としての抹消された真のは、「存在論的差異」に関与せず、「愛」でもなく、「一」でもなく、「善」でもなく、「有」でもない――すなわち、マリオンのこの上なく刺激的な表現を借りれば、存在の外部に「はみ出す」のである。
神とは、記号表記、及び概念的表記、その他発話による人間的ないかなる概念策定からも解き放たれた、否定神学的ディスクールでしか最早表現できない、人間の思考の限界性の「はみ出し」た外部、としてのみ、その淡い輪郭の一端を覗かせるのである。
人間は、すなわちいかなる時代においても、未来永劫神について語ることを赦されない。
「語りえないものについては、沈黙せねばならない」(ウィトゲンシュタイン)。

こうして、我々はおそらく、マリオンの眼を覚まさせるような言説に触れて、ようやくハイデッガーという二十世紀の「怪物的遺産」の迷路から、脱出するのである。
ハイデッガーは、私が全集を読解してきた経験からいうに、「存在」の哲学者ではなかった。
彼は、あらゆる点でヘラクレイトスの末裔であり、「存在者」から「存在」が抜き去られ、「存在」それ自体が無限後退している感覚を、「最後の神」というヘルダーリン的な詩的言語で表記した「農夫=詩人」であるに過ぎない。
彼は、「存在論的差異」として、キリスト教神学的な「創造論」を焼きなおし、いわば「再生産」させたに過ぎない。
それが、二十一世紀的な意味でのハイデッガー存在論の「機能」であった。
その姿は、パトモスの島の断崖に立つ、一人の狂える預言者なのである。
そして今や、ハイデッガーは過去の人であり、その存在論も新しい視座へと更新され吸収される時が来たのである。
マリオンはその展望の基礎を少なくとも示している。
注意深く読まねばならない、ハイデッガーのように、ニーチェのように、福音書のように。

近代的パラダイムにおける「神の死」を経て久しい現代世界において、それでもなお、マリオンが必死に語ろうとするものがある。
それは、神の属性の中で、最も謎めいていて最も危険なものでもあり、思考しえないものである。
それは、「愛」である。
マリオンは神に賦与された概念を「偶像」として摘出するにも関わらず、「愛」のみはその胸元に保管する。
彼は司祭のようにこういう。
「神は愛する」と。

は、我々が神についてどう語ろうとも、ただ直向に、我々人間を徹底的に愛する。
そして、マリオンは人間も同じく、「愛」がなければ死滅に達することを語るのである。

「ロゴスは、ただ愛だけに導かれるのでない場合には、空しさの打撃を受けて狂う」



「愛」がなければ「狂う」と、マリオンは本気で語っている。
そして同時に彼は、「愛」そのものが「空しさ」を生み出す根源であることをも認めるのである。
ここに、哲学からは感性学としての愛にまで接近できない理由が垣間見えるのではないか。
哲学は、「愛」にまで達し得ない。
デリダはそれを恐怖してか、意味不明な恋愛書簡ともいうべき名高い『絵葉書』を書いたが、それでも「愛」はまだ宛先不明のままであり続けている。
おそらく、私が聖書で触れた中で最高に「愛」的な表現は、「神は御子をお与えになるほど、世を愛された」であるが、神が創造以来、徹底的に人間を愛し抜いていることは、確信を持ってそう断言されて良い。
「神が我々を愛し抜いている」のである以上は、神とは、不可視の「見えざる愛」である。
幼きイエスの聖テレーズが述べたように、「神はその個人にとって最も相応しい出来事をお与えになる」のであり、「この世には救いがない」という感覚様態を人間に賦与することによって、無限の「愛」の高みに接近させるのである。
神が「愛」であることに、現代思想がいかなる反論も解体も成しえない限り、神とは何であるか、について、唯一否定神学的表現を免れる断定は、「神とは愛である」(ヨハネ)しかないであろう。

かくして、存在論的差異の宮殿は破壊されたが、その中心には「愛」が残ったことを示唆することで、マリオンは古いキリスト教の伝統に回帰しているのである。
ここに、おそらくキリスト教がどの時代においても燦爛と輝く美徳を害わない普遍的な要因があるように思う。
私は護教論的に書いたわけではないが、当初の疑問であった、「愛」と「存在論的差異」の関係については、それが全く別次元のものであるようにも感じている。
存在論なしでも、愛は成立するのだろうか。
だとすると、その愛とは何であるのか?
それは人間的な愛であるに過ぎない。
神という創造者から被造物が愛されているという認識があって、初めてマリオンのいう「愛」は可能である。
にもかかわらず、マリオンはこの関係自体を、存在論的差異として批判するのである。
ここには矛盾が働いている。
マリオンが認めるのは、「存在論ぬきの愛」であり、そうしたものの彼方におられる「思惟されえぬもの」、すなわちである。
では、最早神について今後語る場合、我々はただ、「愛されている」というコンテキストでしか語れないのか。

我々はここで、最後にシエナの聖カタリナの言葉を残しておきたい。
彼女は本書が持つ核心的テーマを以下のように素朴に表現することができた。

「すべては愛から生じます。
すべての人間は救いに向けられています。
神が行われるのは、ただこの目的のためです」



ハイデッガーの存在論を、「存在=愛」として読み替え、「存在者」はこの「愛」によって生起したのであるということ――これをマリオンは批判しないだろう。
だとすれば、存在論抜きでの神は、すなわち「存在なき神」とは、その最後にまで削り落とされた後でも残り得た感性的超越としての、「愛(アガペー)」以外をおいて、他にないという結論に達するのである。






ma   rion

マリオン,ジャン=リュック[マリオン,ジャンリュック][Marion,Jean‐Luc]

1946年パリ生まれ。パリ・エコール・ノルマル・シュペリウール卒業、パリ第4大学助手、ポワティエ大学教授、パリ第10大学教授を経て現在パリ第4大学教授、シカゴ大学教授。1992年アカデミー・フランセーズ哲学大賞、2007年カール・ヤスパース賞(ハイデルベルク)受賞。2008年にアカデミー・フランセーズに選出される。ハイデガーの決定的な影響のもとにありながら、「存在の問い」を「神の問い」によって解任し、それに基づいてデカルトを初めとする哲学史研究、神学、現象学のそれぞれの分野を大胆に革新しつつある現代フランスを代表する哲学者である。


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