02/14のツイートまとめ 

† Twitter †

afterfinitude01

入不ニ基義の議論は哲学上の仮説(問題提起)をまず概念に分節化し、その各項(1~3)を個別に分析し更に派生項(1-1~1-3)へと再分節化するようにして議論を論理的構文に沿って緻密に展開する。そこが決定的に私が彼に惹かれる理由であり、隠喩と概念の共犯によって思考にヴェールをかける余地はない。
02-14 22:24

熱中して読み耽った『あるようになり、なるようにある』も、アリストテレスのエネルゲイア論に接続することがようやく理解できた。入不ニ哲学においてエネルゲイアとは即デュナミスであるから、「八岐の園」的な可能的様相は「現にある今」へと縮約される。斜め上から迫るボルヘス論とも言えるだろう。
02-14 22:14

入不ニの本論以後、おそらく今後の論壇で潜在性を実在に包摂できない議論は全て過去のものになる予感さえする。特にSRとの関連で決定的に重要なのは「潜在性の深度」、「最深潜在性」の概念。「隠れたる神」も「来たるべき民主主義」も共に可能性や潜在性ではなく、実在論的な「現実性」に収斂する。
02-14 22:05

マルクス・ガブリエルの領野の複数性の議論(存在論的多元主義)も、入不ニがメガラ派的現実主義を見事に脱構築して打ち出した汎-現実主義=汎-潜在主義(pan-actualism=pan-potentialism)も、共にハーマンと同じく「実在」の概念に潜在的ないし虚構的なものを埋め込んでいると解釈できる。
02-14 21:56

入不ニ基義「現実性と潜在性」(『現代思想』2017.12)読了。最近読んだ諸論稿の中では最も刺激的で卓越した議論。メイヤスーの事実論性と入不ニ哲学がいかに強い親和性を持っているかは現代思想界隈でもよく言及されてきたが、本論は圧倒的な密度でメイヤスーが語り得なかった様相の問題に切り込む。
02-14 21:47


02/13のツイートまとめ 

† Twitter †

afterfinitude01

往々にして人は文学を虚構として扱うが、蓮實重彥にとって文学的テクストは「現実世界を従属的に模倣するひとつの世界ではない」(p375)、つまり虚構としては捉えられず「テクスト的現実」を構成している。この辺りもデリダの「テクストの外部はない」と共鳴している。
02-13 21:51

蓮實重彥がアリストテレスの『詩学』を過大評価し過ぎている文学理論の諸傾向を批判していたという点もかなり重要だろう。蓮實が「アリストテレスの呪縛」に抗するという意味で評価していたのはド・マン、リファテール、ランシエール。蓮實 の読み自体がイェール学派に近接していた点も言及される。
02-13 21:46

書く行為は薬になる一方で、エクリチュールの孤児性が本質的に付帯するため書き手に往々にして痛み(毒)をも与える。薬でもあり、かつ毒でもあるようなもの、すなわちデリダ的な術語を用いれば著者が述べるように「パルマコン」としての性格が前景化する。この議論にも深く共感した。
02-13 21:42

エクリチュールの孤児性とは意識、責任からも隔絶した書く行為を意味しており、蓮實重彥は『表象の奈落』でこれを「書かれた文字の漂流性」(p315)とも言い換えている。どれほど情熱を注いで書いても、それはいわば大海に瓶詰を漂流させるような行為であり、宛先は不明、常に時間的なずれを帯びる。
02-13 21:38

郷原佳以「理論のフィクション性、あるいは「デリダ派」蓮實重彥」(『ユリイカ』2017.10読了)読了。著者を読むのはブランショ論『文学のミニマルイメージ』や『現代思想』など掲載されたデリダ論以来。蓮實がデリダのオースティン論における「エクリチュールの孤児性」に共鳴していた点を知った。
02-13 21:30


02/12のツイートまとめ 

† Twitter †

afterfinitude01

カルナップの面白いところは、規範的倫理学が「殺人は悪である」と断言する際、論理実証主義的には「殺人」という行為から「悪」を演繹できないと主張するところにあったりする。心理学的、法学的命題からは可能でも論理的には検証不可能な場合、そのような命題は理論的内容を持たないとされる。
02-12 16:41

『エチカ』は確かに幾何学的な構成を持つ倫理学を企図しているが、これについてはカルナップ『論理的構文論』の観点から、それは検証不可能な疑似命題ではなかったかという批判も可能だと思う。カルナップによれば、命題P1が完全に検証できない場合、P1は「仮説」と規定される。
02-12 16:31

近藤によれば『エチカ』と『知性改善論』の決定的差異は事物を定義する上での方法論にこそある。前者では幾何学的定義によって「真である必要がない」(経験不可能な)ものも構成可能になったので、「実在性の極大」を扱えるようになった。数学の生成はスピノザにおいて神の確実性と等価なものだった。
02-12 16:27

近藤和敬「カヴァイエスとスピノザ『エチカ』のあいだに見出しうる一つの関係」(『主体の論理・概念の倫理』)読了。著者の論考に触れるのは『数学的経験の哲学』以来。カヴァイエスとスピノザは数学的経験を「叡智的なもの」として認識していたが、これはメイヤスーの相関の「外部」に通じる問題。
02-12 16:17

掌編「列車が走っている間に」は生まれてから死ぬまで列車内で人々が暮らすようになった世界で、「セイレーンの眠る浜辺」は女人禁制のアトスの修道院の浜辺に、一人の若い女性が流れ着くというもの。何かが特に起きるわけではない。ファーユの描く世界には安らぎと癒しを感じる。
02-12 13:17

「海からの風、青みがかった空でわたしは目覚めた。はるか昔の子ども時代の朝の甘美さ。それはとっても美しかった。おそらく、そういったことは再びはじまるだろう、なぜって、何もかもが同じなのだから。そう、あらゆるものは再開する」エリック・ファーユ「わたしは灯台守」(p169)
02-12 13:10

98年にドゥ・マゴ文学賞を受賞した表題作は、浜辺の灯台にずっと籠ってその生活記録を残している男が語り手で、ほとんど変わらない日常が綴られている。「語彙の没落」が起きても少ない言葉で満足できることを知ったとか、少年期のような幸せな日々は今後も訪れるだろうとか、平穏な描写が魅力的だ。
02-12 13:07

エリック・ファーユ『わたしは灯台守』の諸作品を読んでいると、俗世間から離れて隠遁できる心の居場所が共通して描き出されていることに気付いた。かなり読み易い内的独白の形式で綴られていて、随所に詩的な表現が光る。同時に「書く」ことの孤独が大きなテーマにもなっている。
02-12 12:58


02/08のツイートまとめ 

† Twitter †

afterfinitude01

ガブリエルの存在論的多元主義(存在論的実在論)は、科学的言説では非実在とされるもの(例えば悪魔)が、なぜ『ファウスト』のような文学的言説では実在として扱われているのか、これを最も合理的に説明できる最良の分析。これはハーマンがキャラクターを対象として位置付けていた点とも関係する。
02-08 23:11

『神話・狂気・哄笑』を読了した時にも書いたと思うが、ガブリエルにとって「存在」とは「あるものが意味領野の中で現れる状態」を意味しているので、統一された唯一の「世界」は論理的に必要でなくなる。むしろ多様な「領野」(Felder)による分節化こそが本質的な問題。
02-08 21:23

特に前者を仔細に読む過程で気付いたのは、ガブリエルが驚くほど分析哲学の遺産に多く負っている点。ウィトゲンシュタイン、カルナップ、クワイン、とりわけデイヴィドソンの実在論には強い賛同が表明されている。デイヴィッド・ルイスの『世界の複数性について』が特筆されるのもポイントだろう。
02-08 21:19

ガブリエルは「最大限様相的に強固な事実」をどう扱うかという観点から議論を出発させており、これは『有限性の後で』の著者が「祖先以前性」から考察を始めるのと非常によく似ている。ガブリエルによればシェリングも「純粋に存在するもの」にフォーカスしていた点で相関主義を免れていた。
02-08 21:14

マルクス・ガブリエルのニ論稿「非自然主義的実在論のために」(『現代思想』2018.1)、「形而上学の根本的問いに対するシェリングの答え」(『ニュクス』02)読了。『神話・狂気・哄笑』での彼の実在論的な立場(存在論的多元主義)はこの二本を読むことでいっそう明確になった。
02-08 21:10


02/05のツイートまとめ 

† Twitter †

afterfinitude01

スピノザの素晴らしいところは、「永遠」というものを、精神だけでなく身体でも「経験する」と断言し得た点。「経験するだろう」とか「経験できる」ではなく、万人が一度は必ず「経験する」。しかも永遠を「実在するものとして」経験する、とまで言い切っている。これにはやはり圧倒される。
02-05 22:19

スピノザが公共社会の利益を優先したのも、その土台の上に個人的欲求が成立するからであり、個人の幸福の最大化が公共の集団的利益の追求と比例するから。だからこそスピノザの政治論は「身振りの政治」(実践としての政治参加)というラディカルな民主主義へ接続する。
02-05 22:11

私がスピノザに惹かれる理由の一つは、「自らの能動性の度合を増大させること」を実践的な生の哲学として展開したところにあって、これは『スピノザと表現の問題』を読む過程でも感じた。どんな人にも活動的になれるものが一つはあるはずで、スピノザはその能動性を拡張することにこそ善性を見出す。
02-05 22:06

特にスリリングなのはナンシーによる註釈だろう。「...あらゆる事物は現実化されているにしろそうでないにしろ実在する」(72)とあるように、ナンシーのスピノザ論は空想的なもの(非実在)も広義の「実在」に含有している。つまり「神の無限知性」に包含される。
02-05 21:56

特に重要なのは実在論へのアプローチ。スピノザにとって「神の身振り」とは実在の「産出的超過」であり、世界には意味も目的も理由もなく実在が過剰に溢れかえっているとカリオラート&ナンシーは解釈している。「神の身振り(Dei nutus)は実在そのものである」(112)。
02-05 21:51

アルフォンソ・カリオラート、ジャン=リュック・ナンシーによるスピノザ論『神の身振り』読了。カリオラートはナンシーの弟子で伊語圏でのデリダ、ナンシーの翻訳者。ドゥルーズのスピノザ論とは違い、「我々は神の身振りによって活動し、神の本性を分有する」というただ一文を中核にして脱構築する。
02-05 21:45


««

プロフィール


最近の記事


最近のコメント


月別アーカイブ


カテゴリー


ブロとも申請フォーム


ブログ内検索


RSSフィード


リンク